Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

TOEFL Writing 練習

Question: Some people think that human needs for farmland, housing, and industry are more important than saving land for endangered animals. Do you agree or disagree with this point of view? Why or why not? Use specific reasons and examples to support your answer

 

 Every life is precious. Any species other than us humans are also inhabitants of the planet Earth and therefore their life should be cherished—which might seem to be obvious to most people. However, no starving people would even come up with this idea; no people who have lost their homes would agree with it. We have to be materially rich in order to be able to consider the situations in which other species are; we have to feel secure ourselves before we cherish other creatures.

 

We have established civilizations where we pursue our happiness, by co-operating with each other, by felling trees and by agonizing, exploiting and killing other species or even making them become extinct. Therefore, on the possibility that we might prioritize the planet Earth’s welfare, I am pessimistic. Of course we should try hard to conserve the environment, but the reason should be that we should enhance our possibility of survival as a species as well as our welfare. If an endangered species is a pest that eats crops grown by a poor farmer in an underdeveloped country, of course it is not the pest’s life but the farmer’s that should be saved—if an environmentalist still insists on the co-existence of the pest and the farmer, I will not trust him. We have to be materially rich to a certain degree before we care about happiness of other animals.

 

Similarly, I do not think that a homeless person, even if she has a puppy as a friend, is or should be environmentally conscious. Who can demand that she be when she has no house to live in? Only when we feel secure can we symbolize such a big idea as the one of the planet Earth or Mother Nature, where not only we but also other species depend on each other and share the destiny.

 

Of course, our interdependence with other species, the fact of which was discovered not long ago, cannot be denied. Yet, to me, the question of whether saving natural habitats of engendered species might be more important than human needs is, especially if posed by a wealthy environmentalist, nothing more than a form of hypocrisy, brought about by lack of imagination. (370 words)

The Only Way to Fight Hate (TIME誌の記事より翻訳)

以下は、Nancy Gibbs氏による"The Only Way to Fight Hate"(「憎しみと闘う唯一の道」)と題された文章の翻訳です。2018年11月1日のTIMEの記事です。(November 12号に所収)以下のリンクでも原文が読めます。

http://time.com/5441420/gibbs-beyond-hate/

 

 憎しみは、私たちのあらゆる根源的本能のうちで、もっとも截然と人間的である。動物にあっては、暴力と恨みは、生存の道具である。人間にあっては、覇権の道具である。まるで、憎しみが人を大きく、安全に、強くするようである。ここ最近の襲撃者の一団の、インターネットへの歪んだ投稿が示唆しているのは、彼らが義務として、憎しみの態勢を取らねばならないと感じたことである。ロバート・バワーズ容疑者(注:10月27日に米ペンシルベニア州シナゴーグユダヤ人礼拝所)で銃を乱射。11人が死亡、6人が負傷)は申立によると、ユダヤ人が難民にまで手を差し延べていることを批難していた。シナゴーグに向け出発したとき彼は、中央アメリカを通って北進する「侵略者」を撃退することを誓っていた。「手をこまねいて、我らが種族が殺されているのを見ていられない」彼の名と一致するメール・アカウントには、こう投稿したのがあった。殺戮の場に派遣された殉教者でもあるかのようだ。また、爆発物を郵送した疑いがかけられているシーザー・サヨック容疑者(注:前大統領ら著名な公人や民主党議員に爆発物を送付した容疑がかけられている)は、ジョージ・ソロスに付きまとっていた。ホローコーストの生き残りの十億長者で、民主党の慈善家でもあるが、陰謀論者曰く、あの侵略に指揮援助をしているというのである。―その武装侵略者はほとんど千マイルも彼方にいるし、彼らの(arms: 武器、腕)の中にある主たるものは、彼らの子供たちなのだということには思いが至らない。「白人は白人を殺さない」と、目撃者はグレゴリー・ブッシュが言い及んだことを引用した。彼は、ケンタッキーの食料雑貨店で黒人の買い物客2名を殺害した容疑で逮捕された。申立によると、事件前、近隣の、黒人が大半を占める教会に侵入できなかったという。

 

 私たちは、「憎しみ」という授業の最難関コースを受講している最中と言ってよい。私たちには他に選択肢がないからである。憎しみは、私たちが最大限の努力を払って抑圧している人格の部分から、真っ先に直視せざるを得ない部分にまで動いてしまった。憎しみはその縛りを抜け、今や私たちの政治、諸綱領、報道、個人の衝突といった場面を駆け巡っている。そして憎しみは、遠くまで行けば行くほど力を増す。これまで誰かを批難するのに不慣れであった人々は、眼前の分断を越えて広がる光景に大いに戦慄し狼狽した結果、手に手を携えてそれと闘う覚悟でいる。礼儀正しくあるように求めても、それは弱さの露呈だ、いわば、一国だけの武装解除だと軽蔑される。トランプ大統領は、団結を呼びかける。けれども彼は同じ口で団結を妨げている。対立者を悪者に仕立て上げ、現実の脅威を見くびり、トラウマを軽んじる。彼は、殺戮された方々を悼んで政治集会を取りやめることなど考えなかった。いや、彼は取りやめを検討したと言った、ただしそれは彼の「髪型が決まらない日」(注:何をやってもうまくいかない日の暗喩)だったからだ。

 

 大統領の嘘にはあまりに多くの関心が寄せられているから、私たちはともすれば彼の粗暴な正直さを見逃してしまう。暗殺の企ての直後、彼は歴代大統領に電話連絡をする必要性を認識しなかった。「控えさせてもらいたいね」と彼は言った。「郵便爆弾騒動は遺憾だ。共和党中間選挙の勢いを削ぐからだ」とも主張した。シナゴーグでの銃撃の犠牲者を弔慰するツイートの後には、ワールド・シリーズに関するコメントが続いた。彼は、そうした銃撃への解決策は死刑制度を再開することだと示唆した。暴力に対抗するのに、それを超えた暴力で対抗するに勝る手段があろうか、というわけだ。そして、もし国土で暗く危険な力が台頭しているとすれば―彼はそう信じているのであるが―「『フェイク・ニュース・メディア』つまり『人民の真の敵』は、あけっぴろげに、はっきり敵意を剥き出しにするのを止めて、ニュースを正確かつ公平に伝えろ」ということになる。

 

 同様に、彼が共感を全く欠いているという証はまた、彼には天賦の才もなければ政治的な強みもない証でもある。彼が持てるのは、私たちのもっとも暗い本能を嗅ぎつけ、それらに訴えかけ、潜んでいるところから引き出してくる能力である。もっとも私たちにとっては、そんなものを目にしないに越したことはないのであるが。彼が侵害しているあらゆる規範の中でもっとも剣呑なもののひとつは、「アメリカ人は常に、私たちを引きずり下ろすのではなく高め、そして私たちを引き離すのではなく団結させる指導者を求める」—これである。「アメリカを再び偉大に(Make America Great Again)」は、怒りに満ち、憤懣やる方ない人々にとっては目覚ましく大望に満ちたスローガンであってきただろう。しかし、偉大さへの道程では、難破した船のように、損なわれた諸制度、価値観、国家の名誉の残骸が煙を上げていることが今や明らかになった。失われしは、死に至る戦いではない政治的な闘いから得られる喜びだ。政治が血なまぐさいスポーツになれば、ほんとうに人は死んでしまうのだ。

 

 さて、それでは問題は以下のようになる。私たちの通常の反応が機能していない。陰謀論の「真実」としての広がりは少なくとも、真実は重要であることを前提とする。同時に、そうした陰謀論は真実を侵蝕する。友人を繋ぐことを意図していたソーシャル・ネットワークは、敵を作るために巧みに設計されていることが判明した。ファクト・チェッキング(事実の確認作業)は大した問題ではない。多数が真実に勝る(tribes trump truth)からだ。記者が大統領が憎しみを煽っていることについての説明責任があると見なそうとすれば、大統領は記者を、偏向報道だ、分断の火に油を注いでいると攻撃する。左派が相手と同じ出方に出れば、私たちの対話を損なう戦略の片棒を担いでしまう。

 

 十字砲火にさらされているのは、怒りに震えたというよりは疲弊してしまった市民である。醜悪で、知的に不毛な、今では、私たちの公共空間として通っている巣窟をどう説明したらいいのか、あるいはそこからどう逃げ出したらいいのか、途方に暮れているのである。陰謀論は、じっさいの知の真面目な営為の代わりにもてはやされている。陰謀論を抱けば、手軽に優越感に浸ることができる。「普通の人は夜のニュースで耳にしたことや新聞で読んだことを信じている。けれども、君はもっと頭がいいんだ、もっと物を知っているんだ。こうした出来事の裏には規則と筋書きがあるのが見て取れるだろう。『グローバリスト』が糸を引いているんだ。『闇の国家』に君の任務が邪魔されているんだ。君だったら騙されない、君は操り人形じゃない、君のほうが物を知っている。君は真実を知っているんだ」。

 

 さて、それではどうすればいいのだろうか。このことによる損失についてもっとも雄弁に語る政治家諸氏は主に、現場を去りゆく人たちである。責任の果たされない時代、あらゆる「エリート」—教師、牧師、科学者、学者を問わない―が疑わしい時代にあって、私たちはどこで道徳的な指導者を見出すことができるだろうか。

 

 もし私たちの過去が導きであり慰みであるなら、その由来はこれまでと変わらない。左を見、右を見よ。上や下を見るのではない。リーダーシップは、『生命の樹』(注:銃撃されたシナゴーグの名)の精神とともにある。そこでの犠牲者には、無償で歯の治療をする歯科医がいた。「彼らにはほんの少しも憎しみを抱いていな」かったと葬儀でラビ(注:シナゴーグの主管者)が語った兄弟がいた。60年以上前にこのシナゴーグで結婚したご夫婦がいた。夜を明かして祈り、黙して連帯しようと訪った何千もの人が彼らすべての死を悼んだ。さらに、リーダーシップは、さらに多くの郵便爆弾が現れたときも職務に引き続きあたった郵便局員とともにある。そして、ケンタッキー州の食料雑貨店で銃撃があったときには、人種と暴力についてコミュニティーで話し合った住民の方々とも、ともにあるのだ。

 

 愛の対極が憎しみでなく無関心であるとするなら、憎しみを解くのは「取り組み」である。投票の日に人々が投票に行くよう、週末人々の玄関の扉をノックしたり、また、電話作戦部で任務にあたった人々はその発露である。情報の奔流から有害な情報を取り除く方途を探る技術者の事業もその発露である。地球上でもっとも富める国々の中のひとつにあって、どういった形の、思いやりに満ち持続可能な文化を自分たちが期待しているかを上司に直談判している従業員もその発露である。服、乳癌の研究費、植樹に充てるためのお金を集めている教会連合や市民クラブや行進隊もその発露である。放課後も個人指導をするために学校に残ったり、あるいは選手たちに、試合相手と敵との違いを指導するコーチもその発露である。―そうしたコーチは、選手たちが将来この知恵を携えた上で、今ではスポーツというよりも戦争のようになってしまった公共空間に参入できることを期待しているのだ。リーダーシップとは、思いやりを形作り、疎外と闘い、オフラインの世界で、街や教室や聖域にまで繰り出し、困っている人に手を差し伸べる、そうした無数の個人の決断から生まれくるであろう。

 

 ここまで書いたらもう明白である。火曜日何が起ころうとも、誰も私たちを救いには来ない。私たち自身で何とかするしかないのだ。

Is it acceptable to keep animals in a zoo?

            Since I was a little boy, I have been to zoos many times. As a child, I learnt how diverse the animal world is, as well as how affectionately each life should be treated. As I grew up, I came to understand that zoos play an important role in protecting endangered species. Given the educational value zoos offer and the contribution they make to conserving the environment, zoos are not simply acceptable but also necessary for society.

            Firstly, with a great many species in one place, visitors realise that our planet is inhabited by miscellaneous kinds of creatures. Everybody might know about black-and-white-striped horses called zebras living in a far-away continent, but learning the fact from a textbook and watching them grazing on grass, neighing, are two different things. Colourful birds from the Amazon Basin capture our imagination, while awkwardly big, sad-looking elephants awe us. Each animal kept in a zoo reflects diverse Mother Nature, and in most cases, only through strolling in a zoo and watching the animals can we notice the fact that we live on a planet teeming with so many species.

            Secondly, the zoo is the best place for developing affection towards animals. Children as well as grown-ups start to feel that each animal is a unique, fragile living creature that needs to be loved as much as we humans do. This educational factor is well known to zookeepers themselves, some of whom provide facilities where visitors can spend time with such animals as rabbits, goats and sheep. Holding a rabbit in our arms or stroking a sheep by the head, we can feel their hearts beating, their arteries carrying warm blood. Even if we are not lucky enough to play with them, we learn how precious each life is while walking freely in a zoo and watching the animals. Animals that are close to us mean far more to us than images on TV or computer screens. It is only their tangibility that lets us be free of indifference and enables us to love other species.

             Thirdly, the zoo is a place not only for displaying interesting animals, but also for protecting endangered species. Take pandas for examples. They are known to be a difficult species to breed as well as an endangered one. If zookeepers all over the world had not tried hard to help them breed, brought cubs up in an incubator and taken good care of them through their lives, the species would hitherto have become extinct, and needless to say, the panda is only one example of so many species that are on the brink of extinction.

            As stated above, the zoo is an important facility from the educational standpoint, and at the same time, it plays a key role in protecting rare animals from dying out. It is more than acceptable. (471 words)

汽笛

  日の高い、四月の終わりの昼間、大きな本屋で女の手頸に傷口がある写真を見た。写真には二十代半ばと思しき痩せた裸の女の左半身が映っていて、手頸の上部に抉ったばかりのような紅色の深い裂目があった。私はすうっと女の手頸から腕へと、肩へと、小さな乳房へと目を移した。写真の下には陰毛が翳っていた。そうしてまた、傷を見た。この女はもう死んでいるかもしれないと思った。それから、この写真家はまだ生きているに違いないと思った。

 

 

  私はもう若い頃ほどには死を憧憬することはなくなったと思っていた。だから夜半に目が醒め、寝惚けたままに女の手頸の傷ばかりが脳裏に浮かぶのを意外に思った。紅い傷口は、もう死んだかもしれない女の手の届かぬ所で雄弁だった。語り得ぬ人は、口を開くのに己の手頸を刃物で傷つけねばならないのだろうか。色彩を失った生を彩るのには、自らの手頸にナイフを突き立て、紅い血を流さねば?

  女は、中丸刀と呼ばれる、木に太い線を彫刻する刀で自らの左腕を抉ったのだった。遠くの汽笛のような痛みがあった。肉が削げ、血が夥しく流れた。女には、本当に汽笛が鳴っているような気がした。静かな昼間に海から届く、長閑な音だ。女がいつも「ぐじゃぐじゃ」と形容していた混乱は後退し、一時の平安が訪った。が、すぐに女は「血を止めなければ」と思った。それで座っていたマットレスから身を起こし、大股でキッチンまで行って、蛇口をひねった。水ってこんなに色がないものだっけ。痛みがゆっくりと歩み寄ってきた。

 それから一時間ほどどう過ごしたのか、女には思い出せない。気がついたら夜の闇は薄らぎ、小鳥が鳴いていた。灰皿には煙草の吸殻がふたつあった。シンクの血は水と混じり、鮮やかな紅を保っていた。痛い。「助けて」と女は静かに言った。けれども、自分の声はいかにも嘘くさく、女は自嘲気味に唇だけで笑んだ。その笑みすらも下手な演技のようで、そう思うと女は途方に暮れた。血が溢れないように静かにマットレスに戻り、血のついた右手で電話を取った。

  「もしもし」と女は言った。

  「もしもし」と酔った男の声。朝の四時半を過ぎていた。少しの間の後、女は「切っちゃった。手頸。かなり深く」と言った。

  「そうか」と男は神妙そうに言った。神妙なふりをしている、と女は思った。

  「どこ?」

  「三宮で酒を飲んでる」

  「行く」

  「そう。おいで」

  肌寒い夜で、女はパーカーを羽織ろうとした。けれども、手頸が血だらけだったし、今でははっきりとした形のある痛みがあった。「無理だ」と思った。「行くのは、無理だ」しばし呆然としていた女はしかし、ふいに右手だけでTシャツを脱いで、下に履いていたものも脱いだ。床に少し血が落ちた。蛍光灯をつけると周りは白くなった。全身鏡に身体を晒し、鏡を通して裂目を見た。女は少しだけ満足し、電話に付属するカメラを鏡に向けた。揺れる画面の中の鏡に女は、血の溜まった裂目を見た。中央が紅色で、周りにいくほど黒っぽい。右手が震えるのを抑えながら、裂目を一枚撮った。続けて、顔が鏡に映らないようにしながら、左半身を撮った。すぐに写真を見たが、自分の周りが白く明るいのも、散らかった部屋が写っているのも気に入らなかった。それで、蛍光灯を消し、カメラのフラッシュを焚き、右手の震えを抑えながらカメラを鏡に向け、裂目と、左半身を何枚か撮った。最後にカメラを直接傷に向け、もう一枚撮った。もういい。そうして、鏡の下にティッシュペーパーがあるのを見て、電話を置き、傷の周りを叩いた。

 

  電話が鳴った。女は出なかった。今自分が電話をかけた相手なのに、女は男を軽蔑し、ほとんど憎らしく思った。

 

  夜は映写機のようにぐるぐると回転し、小鳥はいよいよ激しく囀り、曇天の朝が現れた。女は今や、写真を誰かに見せたいという激しい欲求に駆られていた。けれども同時に、そうしない方がよいだろうという思いもあった。実験をしなければ。試しにあの酔った男に写真を送信したらどうなるだろう。あの男なら、私の人生から消えても一向に構わないから。

 

  男は足元が覚束ないほどに酔っていた。夜はすっかり明け、白んだ空の下には灰色の建物が林立していた。カラスがかあ、かあと鳴いて青いゴミ袋を破いていた。鬱屈した、人恋しい気がした。電話が合図した。さっき電話を寄こしてきた女からだ。確認すると、写真が二枚届いていた。文面はなかった。傷を見た男はどきりとしたが、すぐに自分が少しも同情していないのに気づいた。男は強く目を閉じ、二秒数えてまた目を開けた。空のほとんどを占める白い雲の裏側に黄色い太陽があるのが分かった。酔いはいよいよ回っていた。下心を隠そうと努めつつ、男は返事を書いた。「大丈夫?痛々しいよ」

  女からの返事はなかった。

 

  夕方から雨が降り、女の傷口は疼くように痛み、男は宿酔で動けなかった。女は病院で傷を縫ってもらった。男はベッドの中で裸の女の写真を見つめていた。左腕に裂目があった。いつまでも塞がりも褪色もしない、画面の中の裂目に、男はだんだんと魅了された。夜は更け、また明けた。そうしてまた日は沈んだ。

 

 

  こうやって、ある一日は別の一日に取って変わられるのだと私は思う。その別の一日は、また別の一日に取って代わられる。彫刻刀で印をつけておかないと自分がどこにいるのか分からなくなる人がいる。血が流れる。静寂の中を痛みだけが追いかけてくる。けれども本当は私には、そんなことは何も分からないのだと思う。いつしか夜は明け、遠くで汽笛の音が聞こえる。私はびっくりする。

 

 

  男は宿酔から醒めてなお何日も、電話の画面で女の傷口の写真を倦むことなく見つめていたが、やがて写真集を編むことを思いついた。傷ついた手頸を撮った写真を何十枚か集めた。集めた写真を加工し、批評を添えた。まとまった冊数が売れ、版を重ねもしたが、男はますます憂鬱になった。ある日酩酊するほど酒を飲んだ後に向精神薬を大量に服薬し、自死してしまった。

 

 

  そこまで考えて私は写真集を閉じ、本屋を出た。往来には無数の男女が行き来していた。人混みの一部分になると私は、じきに写真集のことは忘れてしまった。喧騒は高らかな空に吸い込まれていった。初夏が訪れようとしていた。

私の知らないあなたへ

    私の知らないあなたが樹の葉を見るとき

 

 あなたがそれらに降る、陽の光を見、めくるめく思いがするとき

 

 私は私でなくなって、心が溶け合う。

 

 また別の誰かと誰かは

 

 食事を愉しんでいる。

 

 語らいが虚空を泳ぐ。

 

 およ、いだ。

 

 いま彼女は、折に触れて語らいの行き先を思い出そうとする。

 

 できない。それでも、からだが温かくなる。血が流れる。わたしのなかを。

 

 誰かが、じぶんの記憶が失くなるのは怖いと思う。

 

 その誰かは、私ではない、誰かだ。

 

 彼は幼いときに目にした、彼の父の若い頃の、白黒の写真を覚えている。歯を見せて笑んでいる。宴席にあって、白い徳利で酒を飲んでいる。彼の父は死んで、その写真は茶びた紙に貼られている。私には、その彼が自分に思えてきそうなのに、やっぱり私ではないのだ。彼の父も、私でも私の父でもない。

 

  恐れと脅えが私のうちにおり、私を統べているというのに、私はその正体を見極めようともせずに、あなたの自由はきっと実現されると決めつけて、虚しく、虚しく、さざ波のように考えた。でもあのとき、やっぱりあなたの存在は確かに希薄であった。

 

 

 それが、私だった。苦しかった。

猿の章

 7年前に書いた『蛙』という掌編(http://nakanotaku.hatenablog.com/entry/20120917/1347815563)を下敷きに、「猿」というお題で書いてみました。原稿用紙1枚半ほどの掌編です。

 

 雨に濡れた猿が、ゆっくり呼吸をしている。しずくが鼻先から唇に落ちる。
 井戸に向かう蛙が、猿を見上げる。
 猿は蛙を見下ろす。井戸の中の、何百もの蛙の骸骨のことを思う。
 名は何ですか、と蛙は問う。
 ミチイだ、と猿は答える。ヒトが勝手につけたんだが、おれは嫌いだ。お前は何という名だと猿は訊く。
 僕はたくさんの卵から生まれたから、名前なんてないんだ。あなたのように、母に愛され、父に罵倒され、ヒトに馴致されて育ったわけではない。気がついたらひとりぼっちで水に流されるちいさなおたまじゃくしだった。たまたま魚に食べられずにすんだけどね。雨に濡れながら、気持ち良さそうに蛙は答える。

 おれはどうせ死ぬ。猿は甘美な孤独の中にいた。いや、蛙がいるから孤独ではないな。

 おれはじきに死ぬと思う。ヒトに手なづけられて、ことばの奴隷になった。心がヒトのことばに縛られているようだ。お前は死ぬのが怖くないのか。死ぬのが怖いというのは、まあ、ことばに隷従しているからだろうが。

 怖い、と蛙は言った。僕の肉体が、僕の、愛や絆についての記憶が全部消えるんだ。無、と呼べるような何かも残らない完全な無だ。怖い。怖くないはずがありません。

 雨が毛並を洗った。猿は夢を見ていた。雨の中で夢を見ていた。ひとりぼっちだった。涙が出てきたが、雨が顔を濡らすので、泣き顔だけが残った。

夏の初め

木漏れ日の下

小さな力こぶの浮き立った

十五くらいの若人らが

酒をぐびり、ぐびり。

唇の周りのか細い無精髭に

だらしなく雫が残っている。

 

僕と三つも変わらぬ若人らは

めいめいどこで通過儀礼を経てきたのか

――おやじの理不尽な暴力?――

子に特有の

よそ者への無遠慮な好奇心を捨て

馴れ馴れしく世界に対峙することをやめ

冷めた目をたたえて

ただ、カッカと哄笑している。

 

僕は何だか怖い。

 

若人らは半裸で立ち上がり、神輿を担ぐ。

酒の蒸気が混ざった吐息。顔の赤いのもいる。

できたての力こぶに、僕は惑う。胸の厚みに、僕は見とれる。

 

神輿は新緑たゆたう六月の細道の中を進んでいく。

どんどん遠くなる声。

 

ふう。

 

僕はひとり残されて

長袖では暑くてきゅうくつだ。

 

たよりない掌。無遠慮な太陽。

 

僕は誰?