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夏の初め

創作

木漏れ日の下

小さな力こぶの浮き立った

十五くらいの若人らが

酒をぐびり、ぐびり。

唇の周りのか細い無精髭に

だらしなく雫が残っている。

 

僕と三つも変わらぬ若人らは

めいめいどこで通過儀礼を経てきたのか

――おやじの理不尽な暴力?――

子に特有の

よそ者への無遠慮な好奇心を捨て

馴れ馴れしく世界に対峙することをやめ

冷めた目をたたえて

ただ、カッカと哄笑している。

 

僕は何だか怖い。

 

若人らは半裸で立ち上がり、神輿を担ぐ。

酒の蒸気が混ざった吐息。顔の赤いのもいる。

できたての力こぶに、僕は惑う。胸の厚みに、僕は見とれる。

 

神輿は新緑たゆたう六月の細道の中を進んでいく。

どんどん遠くなる声。

 

ふう。

 

僕はひとり残されて

長袖では暑くてきゅうくつだ。

 

たよりない掌。無遠慮な太陽。

 

僕は誰?

鎮魂

僕は詩を書くからなのかな、
 
皆の思いつくような考えは唾棄してきたやったわけだ。
 
親の墓参りには難色を示し、
 
式典での黙禱中に
 
薄目を開けて前の禿げ頭を見る。
 
僕は素朴な人間なのに
 
人が死んだら涙を流しておいおい嗚咽する人間なのに
 
どうして、鎮魂の旗振りをする人を怒らせるような素行をとるかというと
 
鎮魂の旗振りというのが嫌だからだなんだ。 
 
死はひとりのものでしょう。死は寂しいものでしょう。
 
きわめて個人的なものでしょう、死というのは。
 
たゆたう炎や、よくわからない宗教が
 
ほんとうに魂を鎮めるのですか。
 
そういう僕だって
 
魂の鎮め方なんて知らないし
 
そもそも、魂を鎮めずにほうっておいたら、いけないものなのかどうかも知らない。
 
一つ言えることは、
 
生きている人間は、あまりに寂しくて、孤独で、やるせなくて、
 
死者に心よせずにはいられないということだ。
 
魂を鎮めずとも
 
死者は意外と平安であるかもしれない。
 
一人で生きている者は
 
死者の夢ばかりを見ているかも…。
 
要するに僕は、死者の運命に楽観している節がある。
 
炎を燈し、死者と生者が出会うところは、
 
そうだな、生者に魂を鎮められる度量があるのかどうかは置いておいて、
 
静謐で、驕りがなければ(TVキャメラなど、論外だ)
 
僕はかまわないのだ。

 

秋の木漏れ日

創作
君が僕に木漏れ日の詩を書いてと言ったとき
 
君は五月の終わりの深緑色の茂ったあおばから
 
金色の太陽がこぼれている
 
そういう風景を書いてほしいと言ったのかもしれないけれど
 
僕が書きたい木漏れ日は、秋の木漏れ日なんだ。
 
秋の木々にたゆたう葉ってさ、どれもが赤や黄色に色づいているわけではない。
 
緑も、褐色も、土色もある。
 
葉と葉の隙間は、初夏と比べて多くって、
 
地面をざくざく歩いていると
 
柔らかいというより、射るような白い光が
 
すっと降りてくる。今は黄色い葉っぱを通って。次は緑の葉っぱを通って。
 
ふうっと風が吹いて、何だかいつでも夕方になりそうで、
 
不安なのか寂しいのか分からなくって、
 
僕が言いたいのはつまり、
 
太陽は僕たちよりもずっと長生きだから
 
そして、黙々と仕事をしているから
 
君が話したいあおばにだって、毎年毎年、降り注ぎ続けるんだけど、
 
僕は、ひょっとしたらみんなと違う、
 
ちょっと変なことが言いたかった、それだけなんだよ。
 
それだけ。

人生に疲れてたばこをやめることにしたおじさんが

カラカラカラと飴を口の中で鳴らしている。

おじさんには小さな娘さんがいる。

百色の色鉛筆よりもふしぎな色をした

よろずの色の飴袋から

大切に一粒ずつ、

大きな粒を小さな口に頬張っている。

奥さんは

職場のデスクで、はっかの味のする飴を舐める。

コロン、コロンという音は確かで、

キーボードを叩く音に消されることがない。

おじさんは、奥さんともうすぐ離婚する。

あるいは、奥さんは、おじさんともうすぐ離婚する。

からん、からんと飴がなる。甘ったるい液が舌にのる。

みんなの人生は続く。飴には関係のないこと。

眠り続ける

幼かった時分の夏の記憶。

私は、遠くにいる母を、おうい、おういと呼んだのに

声は、母に届かず消えてしまう。

黄色い太陽の下、私は半泣きで、

声が届かぬ意味を解せなかった。

おとなになって、

私がいつも思うのは黄色い太陽。

眩しい朝日は

ばかばかしくてうっとうしい。

昼前には

天空から刺す光が

私を眠りに誘って包み込む。

そういうわけで

私は黄色い太陽に包まれて眠る。

何十年も前の夏に

私の届けられなかった声を聞いていた黄色い太陽。

声を届けられずにまごつく私を見ていた。

いまは

疲れ果てた私を温める。

 

もう疲れたと、私は思っている。

夜が終わって、ばかな黄色い太陽が現れ、

私はもう眠ろうと思う。

ばかで柔らかい温もりに

黄色い太陽に

包まれて

ずっとずっと

眠ろうと思っている。

Essay Practice: Euthanasia

数週間前に僕が書いた英文エッセイで、公開せずに眠っていたものです。テーマは安楽死です。賛成の立場で書いています。(語学面で)自分の生徒の模範となるように書きました。論拠は、生徒の思いついたものの域を出ていません。もちろん哲学的な議論には程遠いです。それでも、外国語として英語を学んでいる方が、「英語が母語でなくても、これくらいは書けるようになるんだ」と励みにしてくださったら、とっても嬉しいです。
 

 As a mortal being, I sometimes think what it will be like to take my last breath. Will I be surrounded by my future family members? Will they be crying? Will they want me to live any longer even if I am terminally ill? They probably will. 

   I know that it is a difficult decision for family members to let their beloved one choose to die before they are called to Heaven. However, I am going to tell my future family that I have the right to die with dignity beforehand. The reasons and examples I shall use here will be applied when we consider why society should accept euthanasia as an individual’s right.

   First and foremost, a person who is terminally ill and is already unconscious cannot be called alive. True, his heart may be pumping fresh blood into arteries, letting the pulse beat soundly. However, does that actually matter if it is only due to the help of high-tech medical machinery? He has been on the most modern life-sustaining machine for weeks. He cannot see, hear or talk by himself. If I were him, I wouldn’t feel happy. Furthermore, I would even despair because I know I wouldn’t be able to feel happy again and die in agony before long. If only I could talk and tell them to kill me! I believe that the people whom I love would think in the same way were they in the same situation. I would like to find the common ground with them that we all have the right to "expire" when we have fallen terminally ill, have lost consciousness totally, and are highly unlikely to recover. I know that it will be a tough decision to make for the people around me when I am about to die, but I believe that we can reach a consensus if we put ourselves in a dying patient’s shoes.

   Now we are prepared to consider the second reason why society should embrace euthanasia as our innate right: that it will allow us to die with the least amount of suffering. I have just invited [challenged] you to imagine how a dying person on a machine feels, and hopefully we have agreed with this important point: If, and only if, he can do nothing but breathe, he cannot be called happy. More strictly, we can be convinced that, with a high degree of probability, he cannot be happy and that he hopes to die with dignity. If only he had made it clear that he didn’t want any life-sustaining care, and there were a social and legal system to let him die and rest in peace! No one wants to die with great pain. Everybody is going to die sooner or later, and some deaths will inevitably entail severe pain! Why not legalize euthanasia before it is too late?

   Every human being should have the right to have dignity, and we should want to stick to our dignity until the very end. Everyone wants to live happily; and the last thing we want would be a life on a life-sustaining machine, deprived of not only speech but also consciousness. Therefore, we should be endowed with the right to deal with the last stage of our own life as we like. (547 words)

対訳版 オバマ大統領 広島演説

翻訳


LIVE: Obama speaks at Hiroshima memorial

 以下は2016年5月27日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏が広島を訪問した際の演説の全訳である。原稿にはザ ・ニューヨーク・タイムズの記事、"Text of President Obama’s Speech in Hiroshima, Japan"を用いた。段落分けは、この記事に従っている。

 Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.  

 71年前の雲一つない眩い朝、死が天空から落下した。世界が、変わった。閃光が、炎の城壁が、一個の都市を破壊した。人類が、おのれをも破壊する術を手にした証左であった。  

 Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in a not-so-distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women and children, thousands of Koreans, a dozen Americans held prisoner.     

 私たちがこの地、広島に来るのはなぜか。それは、そう遠くない過去に解き放たれた、むごたらしい力を思い見るためだ。それは、命を落とした方々を悼むためだ。十万を超す日本人の男性、女性、子供がいた。何千もの朝鮮人がいた。勾留されていた十数人のアメリカ人がいた。     

 Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

 亡くなられた方々のみ魂は私たちに語りかける。おのが内奥を見たまえ。きみは誰で、何になるのか、重々考えたまえ。  

 It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors having learned to make blades from flint and spears from wood used these tools not just for hunting but against their own kind. On every continent, the history of civilization is filled with war, whether driven by scarcity of grain or hunger for gold, compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen. Peoples have been subjugated and liberated. And at each juncture, innocents have suffered, a countless toll, their names forgotten by time.

 広島を特別な存在にしているのは、戦争があったという事実ではない。血なまぐさい争いが地上に現れたのが、人類の誕生と時を同じくすることは、考古品が今に伝えている。フリント(火打石)で刃を、木で槍を作る術を学んだ私たちの初期の祖先は、これらの道具を狩りに用いたのみならず、同胞に対しても用いた。すべての大陸において、文明の歴史には戦争が稠密している。それを駆り立てたのが穀物の欠乏であろうと黄金の渇望であろうと、事情は同じだ。それをもたらしたのが民族主義の熱情であろうと信仰の情熱であろうと、事情は同じなのだ。帝国が興っては滅んだ。諸々の民族が服従を強いられ、解放された。そしてそれぞれの時点において、無辜の民が辛酸を嘗めてきた。命を落とした人の数は知れない。そうした人々の名を、時が留め置くことはなかった。    

 The world war that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities and magnificent art. Their thinkers had advanced ideas of justice and harmony and truth. And yet the war grew out of the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest tribes, an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints.

 広島と長崎で残虐な終末を迎えた先の世界大戦は、最も富める諸国家、最も強力な諸国家の間で繰り広げられたのであった。それら諸国家の諸文明はこの世界に壮大な都市を、目も眩まんばかりの芸術をもたらしたというのに。それら諸国家の哲人らは、正義と調和と真実について先進的な思想をもっていたというのに。それなのにこの戦争は、最も簡素な暮らしを営んでいた部族さえをも互いに争わせたのと同じ、支配や征服を指向する根源的本能に源を発していた。旧い行動様式が、新時代の軍事力によって拡大せしめられた。新時代の求める縛りはそこになかった。    

 In the span of a few years, some 60 million people would die. Men, women, children, no different than us. Shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death. There are many sites around the world that chronicle this war, memorials that tell stories of courage and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity.

 数年のうちに、6000万もの人が命を落とすことになる。男性、女性、子供…私たちと何ら変わるところのない人たちだ。そんな人たちが銃殺された。撲殺された。死ぬまで歩かされた。爆撃されて命を落とした。投獄されたまま息絶えた。餓死した。ガス室に送り込まれた。この戦争を語り継ぐ場所は世界中にいくつもある。武勇談や英雄談を語るメモリアルだけではない。口にするのもおぞましい鬼のこえがこだまする墓があり、収容所跡地がある。

 Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies, we are most starkly reminded of humanity’s core contradiction. How the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our toolmaking, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will — those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

 しかしながら、この大空を突き抜けたきのこ雲を捉えた像を見るときほど、私たちが人間の持つ根源的な矛盾をはっきり思い知らされることはない。私たちを人類たらしめるささやかな火種こそが、すなわち私たちの思想が、想像力が、言語が、道具作りの才覚が、私たち自身を自然から別ち、自然を恣(ほしいまま)に操る権能が、実は同時に、私たちの手に無類の破壊力を与えている。何という矛盾だろうか。

 How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily we learn to justify violence in the name of some higher cause. 

 物的な進歩が、社会革新(ソーシャル・イノベーション)が、どれほど頻繁にこの真実を見えなくしていることだろう。私たちは、いかにやすやすと、何か高邁な大義の名の下に、暴力を正当化するようになることか。

 Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness, and yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith as a license to kill.

 偉大な宗教はみな、愛と平和と義への道を約束している。しかしどの宗教にもいつも、信仰は殺めることの免状だと言って聞かない信者がいる。

 Nations arise telling a story that binds people together in sacrifice and cooperation, allowing for remarkable feats. But those same stories have so often been used to oppress and dehumanize those who are different.  

 国民国家は、犠牲と協働のもとに人を束ねる物語を紡いで興るものだ。確かにそれは、目を見張る偉業を可能にしてきた。しかし、これまであまりにも多く、同じ物語が、異質な他者を迫害し非人道的な扱いをするために用いられてきた。 

 Science allows us to communicate across the seas and fly above the clouds, to cure disease and understand the cosmos, but those same discoveries can be turned into ever more efficient killing machines.

 科学のおかげで、私たちは大洋を越えて通信ができる。雲海の上を飛ぶことができる。病を治癒できる。宇宙を洞察できる。しかし同じ発見が、これまで以上に効率的な殺人機械に変貌することもある。 

 The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

 現代の戦争は私たちにこの真実を教えてくれる。広島はこの真実を教えてくれる。技術が進歩しても、人間社会において同等の進歩を欠けば、私たちの未来は暗闇だということもありうるのだ。原子の分裂をもたらした科学革命もまた、道徳革命を必要としている。  

 That is why we come to this place. We stand here in the middle of this city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see. We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed across the arc of that terrible war and the wars that came before and the wars that would follow.

 それゆえ、私たちはこの地に来るのだ。私たちは、ここ、この街の中心に立ち、意識を高め、爆弾の落ちた瞬間を想像する。眼前の光景に当惑する子供たちの恐怖を感じる。声なき叫びに耳を澄ます。私たちの心におわす殺された無辜の民は、この凄惨な戦争の犠牲者にとどまらない。それに先立つ戦争からそれ以後の戦争にまで弓なりに及ぶ。

 Mere words cannot give voice to such suffering. But we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again. 

 言葉だけではそうした辛苦に声を与えられない。私たちには、歴史を直視し、そうした辛苦が繰り返されるのを抑えるために、何をこれまでと違う方法でせねばならないかを問う共同の責務がある。

 Some day, the voices of the hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of Aug. 6, 1945, must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our moral imagination. It allows us to change.

 戦禍の証である、被爆者の方々の声を聞くことができなくなる日は、いつか訪れる。しかし1945年8月6日の朝の記憶は、決して風化させてはならない。この記憶があるから、私たちは自惚れに抗うことができる。この記憶は、道徳的な想像力を高めてくれる。この記憶があるから、私たちは変わることができる。

 And since that fateful day, we have made choices that give us hope. The United States and Japan have forged not only an alliance but a friendship that has won far more for our people than we could ever claim through war. The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy. Oppressed people and nations won liberation. An international community established institutions and treaties that work to avoid war and aspire to restrict and roll back and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

 そしてあの運命の日から、私たちは、自らに希望を与えてくれる選択をしてきた。合衆国と日本は同盟関係のみならず友情も築いてきた。この友情によって両国民は、戦争を通して要求できたことを遥かに凌ぐ、多くの恩恵に浴することになった。ヨーロッパの国家は、EUを設立した。かつての戦場は商業的・民主的な紐帯に取って代わられた。虐げられた人々と国家は自由を勝ち取った。世界の国々が連携して、戦争を回避するために機能し、かつ、核兵器を規制、削減、最終的には廃絶せんと希求する諸制度、諸条約を生み出した。

 Still, every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world shows our work is never done. We may not be able to eliminate man’s capacity to do evil, so nations and the alliances that we form must possess the means to defend ourselves. But among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them.

 それでも、私たちが世界中で目撃する、あらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ行為、権力腐敗、残酷、抑圧が示しているのは、私たちの仕事に終わりはないということだ。人の悪を為す力を根絶することはできないかもしれない。だから国家および私たちが形成する同盟は、自らを護る手段を保持していなければならない。しかし、私の国のように核兵器の備蓄がある国家にあっては、人は、恐怖の論理から自由になり、核のない世界を求める勇気を持たねばならない。

 We may not realize this goal in my lifetime, but persistent effort can roll back the possibility of catastrophe. We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. We can stop the spread to new nations and secure deadly materials from fanatics.

 私が生きている間に、私たちがこの目標を達成することはないかもしれない。しかし、弛まぬ努力によって、破滅の可能性を縮小させることはできる。備蓄されている核兵器の根絶への道筋を描くこともできる。核兵器が新しい国に拡散するのを止めることも、狂信的な国家に死の原料を渡さないでおくこともできる。 

 And yet that is not enough. For we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale. We must change our mind-set about war itself. To prevent conflict through diplomacy and strive to end conflicts after they’ve begun. To see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition. To define our nations not by our capacity to destroy but by what we build. And perhaps, above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race.

 しかし、それでもまだ十分ではない。それというのも、今日の世界にあって、私たちは、最も粗末な作りのライフルや樽爆弾でさえ、おぞましい規模の暴力を生み出すことができるのを目撃しているからだ。私たちは、戦争そのものについての自らの心のあり方を変えなければならない。外交を通して衝突を避け、始まってしまった紛争は止めようと力を尽くすためにだ。私たちの深化する相互依存を、激しい競争ではなく平和的協調のための理由と見做すためだ。破壊する力によってではなく、生み出したものによって国を意味づけるためだ。そしてとりわけ、ひょっとしたら私たちは、人間という一つの種の一員として、互いの繋がりを、想像力を膨らませて再解釈せねばならないのかもしれない。 

 For this, too, is what makes our species unique. We’re not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.

 というのも、このこともまた、われわれ人類をかけがえのないものにするからだ。私たちは過去の過ちを繰り返すように遺伝子のコードによって宿命づけられているわけではない。私たちは学ぶことができる。選択することもできる。子供にこれまでとは違う物語を語ることもできるのだ。私たちに共通する人間性を描く物語を。戦争がこれまでのようには起こらず、残酷なことがこれまでほどには容易に起こらない物語を。

 We see these stories in the hibakusha. The woman who forgave a pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized that what she really hated was war itself. The man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

 これらの物語は被爆者の中にある。原爆を落とした飛行機を操縦していたパイロットを赦した女性。彼女は、自分が本当に憎いのは戦争そのものだと認めていた。あるいは、ここ広島で命を落としたアメリカ人の家族をいくつも捜し当てた男性。彼は、家族らの喪失感は自分のそれと同じだと信じていた。

 My own nation’s story began with simple words: All men are created equal and endowed by our creator with certain unalienable rights including life, liberty and the pursuit of happiness. Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans. The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family — that is the story that we all must tell.

 私自身の国の物語は、率直な言葉で始まる。人は皆平等につくられ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求を含む不可分の権利を賦与されている。この理想を実現するのは、アメリカ国内においてさえ、アメリカ人の間でさえ、簡単であったためしがない。それでも、この物語に忠実でいることは、その努力に見合う価値のあることだ。それは、求めようと奮闘されるべき理想であり、大陸を越え、大洋を越える理想である。すべての人が持つ集約不可能な価値、すべての生命がかけがえがないという主張、私たちは、人間というひとつの家族の成員だという根本的で不可欠な概念、それこそが私たち皆が語らなければならない物語なのだ。 

 That is why we come to Hiroshima. So that we might think of people we love. The first smile from our children in the morning. The gentle touch from a spouse over the kitchen table. The comforting embrace of a parent. We can think of those things and know that those same precious moments took place here, 71 years ago.

 こういうわけで、私たちは広島に来るのだ。私たちは、愛する人を思うことになる。朝一番、子供たちからこぼれる笑み。台所のテーブル越しに夫や妻が差し出す優しい掌。父や母からの安らぎを生む抱擁。私たちはこうしたことに思いを馳せることができる。そしてまた、私たちはこのことも知っている。すなわち、同じかけがえのない瞬間が、71年前にここで起こっていたのだ、と。

 Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it. When the choices made by nations, when the choices made by leaders, reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done. 

 亡くなられた方々は、私たちと同じだ。普通の人ならば分かってくださると思う。普通の人はこれ以上の戦争を望んでいない。科学の驚異は生の向上に充ててほしい。殺すのには使ってほしくない。国家の行う選択が、あるいは指導者の行う選択が、この簡単明瞭な知恵を反映していれば、広島の教えは活かされていると言える。

 The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child. That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare but as the start of our own moral awakening.

  この地で、世界は永久(とわ)なる変貌を被った。しかし今日では、この街の子供は、平和の中で子供時代を送る。何と尊いことであるか。それは護る価値があり、すべての子供の手に届ける価値がある。それは私たちが選び取ることができる未来である。それは、広島と長崎が、核戦争の夜明けとしてではなく、私たちの道徳的目覚めの契機として記憶される未来なのである。