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Paul Auster ”Sunset Park”

書評

Sunset Park

Sunset Park

 どれだけ素朴な読み方をしても明白なことは、この作品が、父と息子の損なわれた絆が再生する物語であるということだ。しかし、この、緻密に構築された小説世界は、私たちにより深い読み方を要求せずにはおかない。

 この小説のクライマックスで、主人公Milesは、もはや将来に希望を抱くことをやめ、「今この瞬間を生きるのだ」と決意する。正直に告白すると、私は当初、これは何て陳腐な結論なんだと思った。しかし、この小説世界を改めて思い直したとき、この決意を素朴すぎる仕方で解釈してはならないことにすぐに思い至った。

 物語の舞台は2008年のアメリカ。言うまでもなく、リーマン・ショック後の経済危機に見舞われているアメリカである。物語は、主人公Milesが、打ち捨てられた家々や家財の写真を熱心に撮影するシーンから始まる。いわば、Milesは、過去に生き、とり憑かれたように、失われゆく過去を保つために懸命なのだ。

 主人公が過去の世界に生きていること、小説世界が、現代のアメリカを描きながら、過去への追憶を基盤にしていることは、他の多くの箇所で、強く示唆されている。タイトルの"Sunset Park"は、ニューヨークにある公園で、主人公たちが共同生活を営む場の名前であるが、私たちは、そこから斜陽、落日を思い描かずにはいられない。また、この公園の傍には、何百万もの人が眠る、広大な墓地があることが描かれている。主人公を、"Sunset Park"での生活に誘った、物語の中で一種のトリックスターを演じているPingは、タイプライターなどの古い道具の修理に携わっている。また、同じ場所で共に暮らし、博士論文の執筆に勤しむAliceの研究テーマは、1946年の映画"The Best Years of Our Lives"(『我等が生涯の最良の年』)だ。この映画は、第二次大戦の復員兵が、社会や家庭にもはや馴染めない悲劇を描いたものだ。

 主人公がこの過去の世界へと落ち込むきっかけは、母親の違う弟が、目の前で交通事故で死んだことで罪の意識に苛まれていたことに加え、大学時代に、継母が彼の存在を疎んじるのを陰で聞いたことだ。傷心した彼は大学すら辞めてしまい、上述の「過去を基盤とした世界」に7年間も佇むことになる。
 
 その世界は、歪んだ世界だ。逆に言うと、生に苦しみながらも健全さを保っている登場人物は、この"Sunset Park"の虚構的世界から意識的・無意識的に距離を保とうとしているように見える。画家を目指すEllenは、ここで共同生活をしながらも孤独に苛まれるが、ヌード・デッサンに熱心であり、肉体の神秘に魅了されている。これは、過去の記憶という人為的な仮構への傾倒とは、好対照を成す。Milesの実の母で、女優であるMary-Leeは、彼らとは離れた場にいるが、ベケットの"Happy Days"(幸せな日々)に出演し、女優としての彼女を生きている。(おそらく、この小説の中で最も魅力的に描かれている女性だ。)そして何より、Milesの恋人であり、大学進学を目指す、優秀で前途有望なPilarは、このSunset Parkという場を直感的に拒絶し、決して留まろうとしない。(Milesとは、結局肉体的に結ばれることがなかったのは、Pilarの立ち位置を明確に示している)

 Sunset Parkは、崩落を運命付けられた場である。それは、抽象的な意味合いにおいてではない。彼らが住むのは、恐慌の中で打ち捨てられた家屋であり、正式な手続きを経ず、違法にそこに住んでいる彼らに対して、当局が動き、家屋から排除するのは時間の問題であったからだ。そして、実際そのように、彼らは排除され、住む場所を失った。

 Milesは、やって来た警官がAliceを階段から突き落としたことに激昂し、彼を殴りつけ、ほうほうの体で逃げ出す。行き詰った彼は漸く父に顛末を話し、自首することを促される。

 警官が階段から突き落としたAliceは、古い映画を通して、真摯に過去を記憶しようとしていた人物だ。Milesはその警官を殴りつけることで、自らの過去への囚われをも殴りつけたはずだ。そこで手を差し伸べた父は、この小説の中で、父の記憶において、父の名において、Milesの幸せな少年時代を記憶し、語ってきた人物である。(一緒に居心地のいいレストランで土曜の朝食を食べたこと、幼い彼の書いた作文に感銘を受けたこと、野球に打ち込んでいたこと…)今や、Milesには、将来の展望は何もない。一縷の希望である恋人は、おそらく、これからMilesとは別れ、新しい大学生活を始めるだろう。彼が、希望を持つのをやめて今この瞬間を生きることを決意したこと、それは、彼が囚われていた過去の闇を払拭し、不適切な場から、不健全な精神から未来を想うことは止そうという決意でもあったのだ。さらに言えば、アメリカの作家であるオースターが、彼の人生を、先行きの不透明なアメリカ社会に仮託していたかもしれないと想像してみるのは、そう見当違いなことではないはずだ。