読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大江健三郎 『新しい文学のために』

書評

新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)

この、大江流「文学入門」は、大江の個人的な文学への思い入れを紹介することを意図されているのではなく、むしろ、特に、文学に熱心な読み手、或いは将来の書き手になろうとしている若者に向けて、より実践的な視点から、一般的な応用可能性を含め、いわば無冠詞の「文学」について記述されている新書である。読者が文学をより深く読み、ひいては創作に応用できるようにとの意図で書かれているのであるから、必然的に、いくつかの文学理論が紹介される。そして、それらの理論は、たとえばドストエフスキー、たとえばトルストイ、それに、フォークナーやバルザックなど一流の書き手の作品を多様に読むことを可能にするし、読者はそれによって、世界文学のさまざまな場面が、どれほど深みと厚みのある時空間であるのかをよく理解することができる。

本書の中で、大江がとりわけ大きく扱っている文学理論は、ロシア・フォルマリズムの「異化」および、ミハイル・バフチンによる「カーニバル」(およびその本質的特徴の綜合としての「グロテスク・リアリズム」)である。

前者は、芸術という、文学よりも広義の概念をも規定する理論であるが、私たちが日常で気にもとめない事物、より直截的に言うと、私たちが日常で、記号や観念として処理している事物に血を通わせ、その「モノの手ごたえ」を回復させ、いきいきと感じることを可能にする手法を意味する。それは、作者が、読者(或いは広く鑑賞者)に「知覚を長引かせる」ことを要求するし、延長を強いられた知覚の「過程」こそが芸術の骨子であるというのが、この概念の意味するところである。

後者は、文学において、物質・肉体的な原理が、精神的な原理を優越し、それを呑み込み、破壊し、そして、それにも拘わらず同時に、より良い、より偉大な価値を再生させる動的過程と定義される。大江はここに、人間への「励まし」を見出している。大江は、この理論の中に(すなわちバフチンによるフランソワ・ラブレー論に現れる「グロテスク・リアリズム」という概念の中に)「文学とは何であるか」という本質的な問いの答えがあるのではないかと示唆しているほどだ。

この2つの理論を中心に、そして、「道化=トリックスター」や「神話的な女性像」など別の理論が互いに補完しつつ、上述の、世界的作家の魅力的な一場面一場面が、多様に解釈される。その重層性と深みが顕現するたびにいちいち意表をつかれ、感歎させられる。まさに刺戟的な読書体験であった。

最後の2章で大江は、文学と建築との類比から、これから文学の書き手を目指す人に、凡そ30のヒントを与える。どれも容易ならざる試みに相違ないが、魅惑的な高みばかりだ。

私が本書を読み終えてから随分日が経つが、なかなかこの場で紹介することが叶わなかった。それは、私にとって、文学理論に触れるのが(いくつかの心理学書の中でを除いて)殆ど初めての経験であり、かつ、文学を愛する私個人に貴重な示唆をいくつも与えている書物であることが直覚され、慎重に内容を消化しようとしたからに他ならない。或いはそれは、冗談めかして言うと、その小説で、読者の「知覚を長引かせる」ことに長けていることでも知られる大江による、読者への戦略であったのかもしれない。

本書は、このように要旨を端的に述べることができるくらいに明快に記述されているのであるが、少なくとも私は、多くの頁で不意を突かれて驚き、頭を抱えて考え込むことがしばしばであった。それは、小説、或いは広く芸術が目指しているのとはいささか別の形で、私の知覚を引き延ばすことになったが、それだけいっそう読書の愉悦に浸ることができた。ただ、小説の読書体験と明確に異なるのは、本書を通して私は、「実践的な意味合いにおいて」多くを学んだことだ。それはつまり、本書を読むことは、小説のように、読む過程そのものこそが第一義であったとは言えないこと、そして、私が本書を慎重に読んだ後に得たのは、その残滓ではなく、むしろ血肉となりうる糧であったということだ。