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田山花袋 『蒲団』

書評

蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

 「甘美なる憂鬱」という物言いを、われわれは時折耳にする。この套言は一見すると撞着語法に思われるが、実際、夢見心地で浸りうるような憂鬱というものが存在しうることに、私は同意する。ある種の憂鬱に甘美さを最初に見出したのは優れた文学者に違いないが、この語法が「発見」され、人口に膾炙したことで、私たちはその心的状態を現実感のあるものとして想像することも、そして、実際に経験することもできるようになった。

 さて、田山花袋の『蒲団』である。日本の自然主義文学(あるいは私小説)の嚆矢と見做される作品である。面白く読んだが、手放しで賞賛できるかと言われれば否定せざるを得ないし、今日の日本で、あるいは世界で、どれほどの文学的な価値を持ち得るのかという点についても疑念を払拭することができない。それは、端的に述べると、主人公と重ね合わされた作者が、憂鬱と不遇の「甘美さ」に浸るあまり自己陶酔し、結局人間の内奥を抉り出すことに成功していないように思われるからである。

 日本の自然主義文学は、徹底して現実の美化を退け、空想や虚飾を棄却し、生の醜悪さを克明に叙することを目指した。それが作品自体の究極の目的であるならば、田山の『蒲団』は満点だ。生は苦しみであり、無常である。(「無常」というのは、日本人にはとりわけ心惹かれる観念であろう。作品には鴨長明の『方丈記』を連想させる記述があり、生の無常を印象付けようとする作者の意図が見出せる。)では、その生の否定的な側面、醜悪さや苦悩はどこに由来するのか。遺伝的、あるいは社会的なハンディキャップを背負いながらも、ひたむきに生きる人の生それ自体の中においてか。少なくともこの作品においては、違う。

 主人公は、妻があり、子がありながら、弟子となった若い女性に恋をする。その女性には、冴えない学生の恋人ができる。主人公は嫉妬に苦しむ。叶わぬ性慾に苦しむ。酒を飲んで酔う。(作中ではその度に、明らかに、自己に酔っている。)社会の慣習があるから、世間体があるから、気持ちと裏腹な言行をとる。苦しい。結局、主人公は、社会の慣習と世間体の全てに敗北して、物語は終わる。

 作品中の社会の慣習や世間体は、今日とは大きく異なるが(その最もたるものが女子の貞操観念だ)、それでも、そういうものに対する個人の敗北というのは、時代を超えて今日でも、よくある。人には見せられないような惨めな状態になることもある。だから、自棄になって酒を飲むことも、やはりある。(だから、この小説を面白く読んだのだ。)  

 それでは、この作品から、時代を超えて普遍的な人間の本質について少しでも意義のある発見があったと言えるか、人間への鋭い洞察に胸を衝かれたか、物語の深みに心震えたか、そうして、自己のアイデンティティが揺らぐ経験をしたかといえば、それは全然ない。この作品は、日本のいわゆる自然主義文学の嚆矢としてセンセーショナルであり、その意味で今日でも記念碑的な意味合いを持つが、西欧の自然主義文学の概念―矮小化されたそれに違いないが―を記述すること自体が目的であったのであり、物語は二の次ではなかったかという印象を払拭できない。  

 主人公が恋をした若い女性(芳子)がクリスチャンの学校に通っていたときの作中の異様な記述を引いて、これを確認したい。  

 「(芳子は)…人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜するという群れの仲間となった」

 …結局この作品は、人間が卑しいことを隠さず、美しいことを標榜しないという宣言以上のものではない。それ自体が目的化したモノローグの間、作者はずっとあの「甘美なる憂鬱」に陶酔させられていたのだ。

○○○  

 二作目の『重右衛門の最後』は、発表されたときに高い評価を得た作品と聞いたが、私は全く評価しない。物語の構成の釣り合いが悪すぎる(長い前半部の多くが、後半の伏線として機能していない)、全体を通して不必要と思われる記述が多すぎる、あるいは必要な記述が欠けている、文法的におかしな文の散在、多くの稚拙な比喩…欠点があまりに多すぎる。そして、何よりも、作者は本作品も「自然主義」の文学として位置づけていたのであろうが、「自然」という語が日本語に翻訳語として輸入されて間もなかったからであろう、「自然」という語が多用される割に、意味がいちいち不明確で、それがこの作品の欠点を際立たせている。「自然」という翻訳語の受容については、たとえば、柳父章翻訳語成立事情』に詳しい。また、英語の"nature"と"naturalism"という語の複雑な事情については、レイモンド・ウィリアムズの『キーワード辞典』が秀逸である。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

 
完訳 キーワード辞典 (平凡社ライブラリー)

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