読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雑踏の中の孤独

創作

 夜の10時半頃であったと思う。大阪駅を歩いていた。改装工事を終えたばかりで、広々とした空間を、真新しい石のタイルが敷き詰めてあった。空間の壁はほとんどすべて、シャッターが下ろされた高級ブティックや旅行代理店が占めていた。大都市のターミナルの改装工事に合わせて事業を拡大せんと出店した、誰もが名を知る店舗ばかりであった。
 人が、前から、後ろから、流れていた。殆どの人は黙々と歩いていた。イアフォンを装着した人、携帯電話を触りながら、ちらちらと前方を見やりつつ歩く人はいつものようにたくさんいたが、誰かと話しながら歩く人はほとんどいなかった。私もその例外ではなかった。口を結び、前方からの人の流れを避けながら、後方からの人の流れに流されていた。

 流れの岸辺とでも言おうか、通路の端に、別の通路との仕切りとしてあった鉄の手すりの傍に、ひとりの乞食がいた。11月の初めだというのに、灰色のよれよれの半袖のTシャツに、あちこちが黒く汚れた、薄いベージュのパンツを身につけていた。足下には、上部をくり貫いたアルミ缶があった。彼は、右手に、その日得たのであろういくらかの小銭を握り締めて、たびたび両手を重ねてひたすらに頭を下げていた。何も言わなかった。葬式で呪文めいたことばを宣う神主のように深く頭を垂れていた。もっとも彼は、あくまで黙っていたし、ましてや、白く清潔で、よそよそしい和服など身につけてはいなかったが。同情を引くのに、惨めな顔をして掻き口説くのは逆効果だというのを、彼は経験から知悉していたのかもしれない。成功するにせよ失敗するにせよ、彼は、彼なりに無表情を保ちつつ、ただ無言でお辞儀を繰り返すことにしているようだった。それでも、人の流れは止まらない。岸辺から流れを見やると、上流から、下流から、二度と思い出すこともできない顔、顔が流れていく。誰も彼を気に留めない。寒々しい日常の風景だ。乞食はそれでも、彼らの無関心を気にするというふうではない。慣れっこなのだ。何度もぺこり、ぺこりとやっている。
 私は、この風景に、胸が痛んだと同時に、どういうわけか異様に惹きつけられた。私は、前後の人の流れに抗した。立ち止まり、乞食の傍まで行って、彼を視た。目には奥行きがあったが、何の感情も語っていなかった。私は遠くで彼を見つけてから決めていた通り、彼から後ろを向いて財布にある残り一枚の紙幣である一万円を出し、私の手の中で誰にも見えないように小さく折り畳んで、彼の、小銭を握った手の中に押し遣った。彼は、手の中を見て、初めて驚いた顔をした。何度も何度も大袈裟に頭を垂れた。それでも彼は、何も言わなかった。私は、彼が何かを口にするだろう、そして、ささやかな会話ができるだろうと思っていたから、彼のその想定外の、目に余るほどに繰り返される大仰なほどの深々としたお辞儀で、私自身が、右に左に流れている人たちからの視線を一点に集める破目になるとは思いも寄らなかった。緊張で鼓動が速くなり、真綿を喉に詰められたように息苦しくなった。流れから逸するごく僅かの居心地の悪さは、幾百の視線に刺されることで、今や狂おしい羞恥となって、私をいたたまれなくした。私は、乞食に、そんなことは止めてくれというふうに大きく手を顔の前で振り、思わず私もお辞儀をし、慌てて流れの中に戻った。再び流れに身体を委ねると、もう、視線の痛みは感じなかった。
 私は、そのとき、かなりきちんとした身なりをしていた。身体に合った紺色のスーツに、糊のきいた水色のシャツ、水玉模様の薄い青のネクタイを身につけていた。昼間に磨いたばかりの高価な黒い靴を履き、こちらもかなり値が張った、新品の革のビジネス・バッグを提げていた。否が応でも、乞食が身につけていた衣服とは著しい対照をなしていた。いわば、澄んだ川の淀みにペンキが流れ込んだようなものだった。

 私がその日にスーツを着ていたのは、たまたまのことだ。めったに着ない。(特別なときにしか着ないから、無理をして質の良いものを買ったのだ。)中学校で同級生だった女性に、突然、食事でもどうかと誘われた。彼女が外回りの営業の仕事帰りに来るというので、こちらもそれに合わせてスーツを着ることを選んだのだ。ひょっとしたら彼女と寝ることができるかもしれないなどと、愚かなことも考えていた。
 15年ぶりの再会は、散々だった。彼女は、私とは相容れない確固たる目的と信念を持って私を呼んだのだ。店は、私が選んだ。私たちは、薄暗いバーの、古びた木のカウンターに席を取って、料理と酒を注文した。彼女は、就職活動をする大学生が着るような、あらゆる個性を剥奪された黒のスーツと白のブラウスを着て、オランダの娼婦も一目置くようなけばけばしい化粧をしていた。彼女は、何も運ばれてこないうちに勢いよく喋りだした。自分が(少なくとも私の印象でということだが)胡散臭い金融会社に勤めていて、投資信託を売っていること、これからは、インドや南米の経済が伸びるからこれこれの商品に投資すると間違いない、是非買うべきだということ、云々。私の食欲と再会の懐かしさは途端に失せた。この苦役ができるだけ早くに終わることを願いながら、運ばれてきたビールをちびちびと舐めた。私はほとんど何も聞かずに相槌を打っていた。そのうち、彼女は、私が興味がないことに感づいたのかもしれない、しゃべる勢いを緩め(それでも決して彼女の話は止むことがなかった)、何杯も酒を注文し、料理を食べた。彼女は、最初にロングアイランド・アイスティーを注文し、その後は、焼酎を何杯もロックで飲んだ。その間に、ピザを食べ、カルパッチョを食べ、から揚げを食べた。たちまち酔うと、酒臭い息を吐き出しながら、今度は自分の信じているカルトについて熱っぽく語った。「信じていれば必ず叶うの。叶わない願いなんてないの」だとか「努力は人を裏切らない」だとか「人間は幸せになるために生まれてきたの。この世に偶然なんてない」と彼女は何度も繰り返した。教団に来るよう勧誘したがっているのだが、呂律が回っていない。私はうんざりしていた。彼女を駅まで送るという高貴なる義務すら放棄し、こう宣言した。「明日早いから。それに今日も仕事で疲れているのか、具合が悪くて食欲がないみたいで。もう眠ってしまいそう。先に帰らせて。気にせずにもう少し飲んでてくれたらいい」。私はそっと席を外してバーテンダーを呼んで、これまでの支払いを済ませてくれと言った。「お連れ様は…」と尋ねるバーテンダーに「連れではなくて、呼ばれただけです」と言った。彼は明らかに困惑していた。彼女を見やると、笑顔で手を振っていた。私も会釈で返した。不快感を顕わにすべからずという教義に拠るのかもしれない。立派な実践だ。飲食代は9270円だった。私は、結局何も食べず、薄いグラスに入ったビールを飲んだだけなのだが、仕方ない。財布の中には、ぴったり二万円あった。一万円を差し出して、730円の釣りを受け取った。遠くの彼女が大きな明るい声で、「どうもありがとう」と言った。

 乞食に一万円を渡し、往き交う流れの中で考えた。あの乞食にはプライドがないのだろうか。あの雑踏で、不特定多数に、下げられるだけ、あんなに深く頭を下げて…。おれには無理だな…と思ったところで、はっとした。今度は私が列車の切符を買うために小銭を握り締めていた。自販機に小銭を放り込み、480円の切符を買った。残り250円。私が物乞いをできないのは、私にプライドがあるからなのか。逆に、彼には、プライドがないから、ああした行為に従事しているのか。違う。彼は、たとえ金が豊富にあっても、私が着ているようなスーツを着ることを、いかなる場面でも拒否するであろう。私は、衣服を交換することを彼に申し出ることを想像してみた。想像の中で、途端に私は彼を激昂させた。拳で烈しく殴られ、歯と頬骨を折った。殴打には、強い憎しみがこもっていた。私は膝から落ち、痛みでうずくまった。慄然として、顔を上げることができなかった。シャツとネクタイには、口から零れた血が染みていた。

 おれには何のプライドがあるというのだ…。

 電車は満員だった。疲れ果てた無表情の顔ばかりだった。車窓に映った自分の顔を見ていると、現実が霞み、歪んだ。眩暈がした。轟きの中で意識が遠のき、闇に流れていった。突然、私は激しい吐き気に襲われた。空っぽの胃が、二度、三度、強く収縮した。我慢できず、私は、提げていた鞄のジッパーを開け顔を突っ込んだ。途端に激しく嘔吐した。固形物を含まない濁った灰色の液体が、鞄の中に溜まった。嘔吐は、短い間隔で三回続いた。酸い、不潔な臭いが車内を漂った。口と喉に気色の悪い酸味があった。シャツとネクタイは、吐瀉物で汚れていた。私は再び人々の視線に、先ほどよりも冷淡な視線に刺されたが、今度は気にならなかった。満員の電車であるにもかかわらず、乗客たちは協調して私の周りから離れるための空間を創り出した。疲労した人々の無表情には興味深い変化があった。ある人は、彼らの無表情に露骨な不快の陰を差さしめた。その他の人々は、不快感を隠蔽するための巧妙な無関心の装いを、その無表情に付け加えた。私のために新たに創られた、車内の狭い空間の中で、私は鞄から目を上げ、そのただ二種類の定型を確認した。