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大江健三郎 『壊れものとしての人間』

書評

 本書は、1969年の7月から12月にかけて、つまり大江健三郎が34の歳に、雑誌に掲載された彼の一連の評論(文学論)が書籍化されたものである。副題は、彼の心の内奥を表す「活字の向こうの暗闇」である。幼少期のエピソードなど、当時にあっての半自伝的な要素も多分に含んでいる。

 大江は当時から、文学という営為において真摯な文学者であった。本書は、自らに向けられた、以下のような根源的な問いとともにはじまる。
 

 読書による経験は、言葉の正統なる意味合いにおいて、経験であるのか、読書によって訓練された想像力は、現実への想像力たりうるのか?ぼくはこのふたつの問いかけを、自分自身に向けて発し、そして当然それにこたえなければならない。それはぼくがはじめて活字の呼びかけに反応した幼年時から、ぼくが狂気にとらえられて活字を喪なうか、あるいは死をむかえるときまで、ぼくのもっとも肝要な部分で発せられ、答えられつづけなければならない命題である。

 あるいは、冷戦が深化し、核戦争の脅威がもっとも生々しく感じられた当時、ソ連、あるいは、文化大革命があった中国ではより頻繁に発せられ、大江の仲間たる秀れた文筆家たちを自殺や沈黙に追い込んだに違いない、以下の問いにも大江は対峙することを厭わない。それはつまり、「文学がなぜ必要なんだ(作家であるお前はどのような行動をしているのだ)」という、不躾な、しかし同時に根源的な問いだ。大江は書く。
 

 あらためていうまでもないが、作家は、文学がなぜ必要なんだ、という問いかけの声によって、できればそれを避けてとおりたいと考えながら、不運にもつかまえられるというのではない。かれが自分の存在をかけた責任のとりかたにおいて、まともにその声をひきうけ、自分の内部の暗闇にまで浸透させる決意をするとき、はじめてこのもっとも非文学的な問いかけに、文学の核心にふれた意味あいが生じて、社会内存在としての作家を根源的に揺さぶるダイナモがしこまれるのである。そのような努力がおこなわれるのは、ほかならぬ作家こそが、にせの社会内存在としてのありかたに、あるいは、違和感を、不安を、あるいは自分自身を引き裂こうとする破滅的な力を見出しているからにほかならないであろう。(本書pp.144-45)

 これらの問いへの大江の答えは、決して明快なものではない。むしろ、大江の答えは、実直すぎて不器用なほどだ。(不器用でない誰が、狂気を恐れるあまりに手のひらに切り出しを突き立てて血まみれになるだろうか?)彼は、自身が「暗闇」と呼ぶ彼自身の心の内奥を手探り、読者を、自身が幼年時を過ごした愛媛の深い森の奥の谷間に、そして、その森の経験と、外国語習得の経験が根底にある、作家としての彼の、核の時代における思想に、あるいは彼が読んできた文学作品に、あるいは障碍をもった長男が生まれてからの彼の心の変容にへといざなう。その道程は曲がりくねっているが、時折足を留め、空気を吸い込み、辺りの声に(あるいは静謐さに)耳を澄ませるのには最適の散歩道だ。そして、大江の思考の軌跡をともに辿る「経験」をし、大江の描く世界を「想像」し、そして現実に戻ってきた読者は、その散歩の愉悦じたいにおいても、ある程度、大江の自問への答えがあることに気づくはずだ。