読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スコット・フィッツジェラルド 『グレート・ギャッツビー』

書評

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

The Great Gatsby

The Great Gatsby

 
 フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』は、中学校3年生のときか高校1年生のときかどちらかの国語の課題図書であった。私はそれを読まずに感想文を提出するような不精な生徒だったが、しかし、年を経て読書経験を重ね、この作品があちこちで(20世紀に書かれた小説トップ100といったリストも含め)言及されているのを目にするたび、いつかは読もう、それも、英語の原書で読もうと思っていた。

 ところが、この英語の原書というのが非常に難しい。冒頭の息を呑むような英文の美しさに惹きこまれ、読み進めようとしたのであるが、使われている単語の難しさ、技巧的で流麗な文体上の技巧に圧倒され、挫折を繰り返していた。

 結局私が読了したのは、野崎孝訳の『グレート・ギャッツビー』であった。私は原書に加え、村上春樹が2006年に出した翻訳書も持っているが、私にとっては、全体として、1974年の野崎訳の方が読みやすく感じた。もっとも訳文が古くなっている箇所はあるが。近い将来に、どちらか、あるいは両方の翻訳書を手元に置きながら、今度こそ原書も通読しようと思っている。

 村上春樹は、彼の新訳の「訳者あとがき」でこのように書いている。

 …『グレート・ギャッツビー』はすべての情景がきわめて繊細に鮮やかに描写され、すべての情念や感情がきわめて精緻に、そして多義的に言語化された文学作品であり、英語で一行一行丁寧に読んでいかないことにはその素晴らしさが十全に理解できない、というところも結局はあるからだ。『グレート・ギャッツビー』において、文章家スコット・フィッツジェラルドの筆は、二十八歳にしてまさにその頂点に達している。ところがそれを日本語に翻訳すると、そこからは否応なく多くの美点が損なわれ、差し引かれていく。デリケートなワインが長旅をしないのと同じことだ。独特のアロマやまろみや舌触りが、避けがたく微妙に失われていく。
 だからこういう小説は原文で読んでいただければいちばんいい、ということになってしまいそうだが、ところがこの原文がまた一筋縄ではいかない。空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない。(pp.334-35)

 美しい英文で有名な冒頭部を引く。まず原文の英語、そして、野崎訳、村上訳と並べるので、読み比べてくださればと思う。
 

 In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I’ve been turning over in my mind ever since.
‘Whenever you feel like criticizing anyone,’ he told me, ‘just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.’
  He didn’t say any more, but we’ve always been unusually communicative in a reserved way, and I understood that he meant a great deal more than that.

 

僕がまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
 「ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」
 父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくとは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父のことばにもいろいろ言外の意味がこめられていることが僕にはわかっていた。(野崎訳)

 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
 父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父とのあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。(村上訳)

 この小説の美しさと狂おしさとすばらしさについて、ありきたりでないことばで伝えることは難しい。ただ、私が、読む過程で何度も表現の見事さに感嘆して、何箇所にも渡って線を引き、ページに折り目をつけたことはささやかに書き添えておきたい。

 私は来月に30歳になるが、語り手のニックもまた、物語の中で30歳を迎える。だから私はより一層、登場人物たちに寄り添ってこの物語を耽読した。ギャッツビーの無鉄砲で一途な愛の希望とその挫折、きらびやかで狂騒的なパーティーに寄り添う人々と、それら全ての儚さと虚しさから、私たちは、人間の無垢な希望の美しさ、人間の脆さ、憂い、哀しみ、無常さ、激情、意地汚さや冷淡さ、義憤、郷愁をも同時に目撃し、深く揺さぶられる。破滅的なギャッツビーはフィッツジェラルドの投影であるが、同時に、彼の無邪気な愛と悲劇に感じ入りながらもそれを冷静に見つめ、彼の悲劇を通して成長を遂げる「ぼく」もまた作者フィッツジェラルドの投影だ。この二本の軸に拠って立つこの作品は、それほど長くない小説でありながら、深く、厚みのある世界を(あるいはひとつの宇宙を)創り出している。(そして、その二つの軸が交叉する場面は、この小説にあって最も美しい場面のひとつかもしれない。最後にこれだけ引用しておこう)

 We shook hands and I started away. Just before I reached the hedge I remembered something and turned around.
‘They’re a rotten crowd,’ I shouted across the lawn. ‘You’re worth the whole damn bunch put together.’
I’ve always been glad I said that. It was the only compliment I ever gave him, because I disapproved of him from beginning to end. First he nodded politely, and then his face broke into that radiant and understanding smile, as if we’d been in ecstatic cahoots on that fact all the time.

 

 ぼくたちは握手をかわし、ぼくは歩き出した。しかし、生垣のところに行きつく直前、ふと、思い出すことがあって振りかえった。
 「あいつらはくだらんやつですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある」
 これを言ったことを、ぼくはいつもうれしく思い出す。これが後にも先にもぼくが彼を賞めた唯一の言葉だった。ぼくは最初から最後まで、彼を認めなかったのだから。はじめ彼はつつましくうなずいたが、それからにこやかに相好をくずし、最初からぼくたち二人の間ではひそかにその事実を認め合って悦に入っていたように、あの心得顔の微笑を浮べた。(野崎訳 p.214)

 握手をし、僕はそこを去った。垣根にたどり着く前に、ひとつ心にかかることがあって、僕は背後を向いた。
 「誰も彼も、かすみたいなやつらだ」と僕は芝生の庭越しに叫んだ。「みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」
 思い切ってそう言っておいてよかったと、今でも思っている。それはあとにも先にも僕が彼に与えた唯一の讃辞になった。僕としてははじめから終わりまで一貫して、彼という人間を是認することはどうしてもできなかったからだ。まず彼は儀礼的にこくりと頷いた。しかしそのあとで相好を崩し、例の全てを了解するような留保なき笑みを浮かべた。まるで「我々はそのことをお互いに知りつつも口には出さず、いざというときのために大切にとっておいたんですよね」とでも言わんばかりに。(村上訳 pp.277-78)

 この小説を通過し、狂おしいような感動を味わってくださればと思う。