読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

T. イーグルトン 『【新版】文学とは何か―現代批評理論への招待』 Terry Eagleton "Literary Theory: An Introduction, Second Edition"

書評

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

 私は、この本を読んで、途端にテリー・イーグルトン(Terry Eagleton)のファンになった。彼がイェール大学で行った講演iPodに入れて聴いているほどである。(その他にもいくつもの講演をYouTubeで視聴できる)。

 私がこの本を手に取ったのは、ひとえに、これが長らく文学理論の(やや高度な)入門書として「定番」とされているからで、(少々値は張ったとは言え)知りたいことを効率よく学べるだろうくらいに思っていたからだ。ところが、私の期待は、良い意味で外れた。この本は、確かに理論およびそれらの歴史を知るのに大いに役立つが、教科書的な教科書では全くない。執筆当時オックスフォードで教鞭を執っていた人物が大威張りに垂れる、文学の定義についての訓話でもない。文学理論を現実の文学作品に応用して分析してみせることもないし、普通の教科書の中では威張っているであろう既存の理論を紹介した上で、著者はそれらにかなり厳しい批判を加える。ほとんど、文学理論への死亡宣告に等しいほどだ。

 本書のタイトルである「文学とは何か?」とは、実は、元は序論のタイトルである。彼はこの中でこう述べる。

 文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するのではないのではもちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとは単なる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し権力を維持していくのに役立つもろもろの前提事項のことを指す。

 本書の構成は以下のようになっている。序章で彼は、文学とは永久不滅の、尊き普遍的価値の体現物ではなく、むしろ歴史上のあるとき、ある文化におけるイデオロギー(上述の定義参照)と密接に連関し相互補助すらする、すぐれて恣意的な産物であることを主張する。そして以下、文学理論の歴史を丁寧に辿りながら、それらの理論を批判的に考察する。

 第1章から第5章で、読者は、近現代思想を、文学批評への応用可能性という観点から批判的に学ぶことができる。もっとも、「現象学」や「精神分析」など、あくまで文学批評での応用という観点で扱われていることに読者は留意せねばならない。それでも、たいへんに面白く、私の本は赤線でのマークでいっぱいになったのだが。

 そして、結論で、イーグルトンは、イデオロギーについて再度考察を促し、文学とともに文学理論もまた、特定のイデオロギーの所産であり、かつその補完物であることを喚起させ、さらには、長期的には、大学における既存の文学制度を失くし、さらに大学は文学の代わりに「文化」の分析に関係する理論や方法を教育すべきであるとすら主張する。また、彼は、かつて古代ギリシャが重視した、実践としての、目的遂行を目指した「修辞学」―古代から18世紀まで唯一容認されてきた修辞学の現代型の復興を目論んでいる。それは、修辞学が「文学」という曖昧な言説にだけ関心を寄せたわけではなく、言語活動一般を、権力形式とパフォーマンスとして把握することに強く関心を寄せたこと、そして、その言語活動は、より大きな社会においての目的や状況と切り離せない関係にあると考えたことに拠るもので、この古代の修辞学の戦略的・社会的特性は、今日の文学理論においては色褪せ、その存在意義すらが疑問に付されているからだ。もちろん、彼は、太古への回帰を望むものではもちろんないし、20世紀が産み出した思想のすべてを否定するというのでもない。彼の目論む「修辞学」は、本書で扱った理論から多く学び得るところがあると断言している。(露骨には書いていないが、マルクス主義批評理論と、フェミニズムに彼は可能性を見ている)。

 彼は、その上でこう述べる。1980年代に書かれた、当時からマルクス主義批評家として辣腕を振るったイーグルトンの以下の文章は、今日にあっても、妥当する。
 

 文化研究の分野で仕事をする人々は、自分たちの活動が文化の中心を占めるなどとよもや誤解をすることはあるまい。人間は文化のみに生きるにあらず。大多数の人間はその歴史を通して、文化に接するチャンスすら奪われてきたのであり、そして現在文化的活動を職業としている幸運な少数者たちの生活を保証しているのも、文化に接することのない人々の労働である。この単純だがもっとも重要な事実から出発し、この事実をその活動の中で心にとめておかないような文化理論や批評理論は、いかなるものにせよ、私の意見では、存在するにあたいしない。文化の記録で同時に野蛮でないようなものは決して存在しない。*1

 文学に没頭することは、内面世界への没入であり、より大きな社会への無関心およびその無関心への無自覚を招くことがしばしばある。私自身も、本書結論での、政治において、目的と戦略をもって、具体的に実践せよとの主張には、叱咤されたようで、こたえた。(まさか『文学とは何か』と題された本で、このような主張に遭逢するなどゆめゆめ思わなかった)。

 新版あとがきでは、今日のポストモダンの議論が紹介される。(著者は、それらの多くを、19世紀にニーチェが先取りしていたと書いているが)。「ポストモダン」という語が使われるようになって、久しい。ポストモダンを標榜する議論が指摘するように、今日私たちは、多様性が尊重され(それ自体はとても良いことだ)、雑多な何もかもが普遍化され、相対主義が過剰に瀰漫する社会で立ち竦み、方途を失っていないだろうか。少なくとも私は、精神のよるべがないような、地に足がつかないような、漠然とした不安と空虚を感じ続けてきた。だが、著者は、本書の最後にこう書く。

 …しかし同時に、共通の価値を信じる人文主義者の鷹揚さは、率直に認めなければならない。ただ、人文主義者たちは、政治的にも経済的にも共通の価値で支えられる世界を実現するというプロジェクトを、「普遍的な」価値に訴えて実行しようとしている点でまちがっている。なぜなら、まだ、そのように再構築されていないこの世界に、「普遍的な」価値などあるはずもないのだから。しかし、普遍的な価値の可能性を信ずる点において人文主義者は誤ってはいない。ただ、普遍的な価値がいかなるものであるかは、いまのところ誰にも正確には予測できないだけなのだ。なぜなら、普遍的な価値を誕生させる物質的状況が、まだ到来していないからである。もしそのような状況が到来するのなら、理論は、それが政治的に実現されたことになるので、余剰なものとなるだろう。そのあかつきには理論家は、安堵のため息をつきながら、彼もしくは彼女の理論家作業を終えることだろう。そして目先をかえて、もっと面白い何かに従事することだろう。

 私自身は、信じるに足る、自らを賭せる普遍的な価値を心の片隅では渇望している、にもかかわらず私は、非常にニヒリスティックな、どこか冷めた人間でもある。ポストモダンの時代を迎えつつある日本に産み落とされ、人生の大半をポストモダン時代の日本で価値形成してきた人間である。ときに、自己の不確かに不安になり、生きることが緩慢な死であるように感じることがある。そうした息苦しさを超克しようと、書棚にある、イーグルトンの以下の著作からヒントを得るつもりである。もちろん、生きるという「実践」へのヒントとして、だ。

イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー)

イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー)

ポストモダニズムの幻想

ポストモダニズムの幻想

アフター・セオリー―ポスト・モダニズムを超えて

アフター・セオリー―ポスト・モダニズムを超えて

The Meaning of Life: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Meaning of Life: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 この4つ目のタイトルには著者自身がよほど気恥ずかしかったのだろう、'Many of the readers of this book are likely to be as sceptical of the phrase "the meaning of life" as they are of Santa Claus.'などと書いている。彼は、著作でも講演でも、こうしたユーモアを好む。

*1:ヴァルター・ベンヤミン「エードゥアルト・フックス―収集家と歴史家―」好村富士彦訳『複製技術時代の芸術』ベンヤミン著作集2 晶文社 1970 p.107