読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

角田光代 『しあわせのねだん』『これからはあるくのだ』

書評

しあわせのねだん (新潮文庫)

しあわせのねだん (新潮文庫)

これからはあるくのだ (文春文庫)

これからはあるくのだ (文春文庫)

 
 僕が普段読むのは、こわばった物言いをすると、現代社会について語った思想や社会(科)学、精神病理の本、あるいは「純文学」に分類される本、そうでなければ、生活や仕事の必要に迫られての実用書やニュース記事ばかりだった。日本語だけでなく、英語も読む。そういう傾向は、長く続くと、少なくとも僕の場合、どことなく疲れてくる。好きな、興味のあるジャンルには違いないのだから、次々と食指を動かしてどんどん読んでいけばいいのだろうけど、生活の隙間時間に読むのがどことなく億劫になり、電車の中で、何も考えずにケータイを触っていることが多くなっていた。(ケータイは好きではないけれど、そうしているとあっという間に時間が過ぎてしまう)。「何となく」の頭の疲れは、厄介なことになかなか気づきにくい。僕の望むところではない、惰性で過ぎる時間が長くなると、一息ついて深く息を吸い込んだり、耳を澄ませたり、食べ物をゆっくり味わったり、ふと周りをしばらく見てみるというようなことができなくなる。惰性というのは、そうしたすべての、毎日訪れるかけがえのないできごとを、退屈で変化に乏しい日常に回収してしまうから。

 これは、良くない傾向だった。第一に、僕はもともとそれほど趣味が多くない人間なのに、だから読書は僕の数少ない趣味と呼べるような活動なのに、その悦びを忘れつつあった。(と言っても、「趣味は読書です」などと無内容な宣言をさせられるときには、恥ずかしくていたたまれない心地がするけれど)。そして、第二に、惰性的な生活は、僕の感受性を麻痺させ、行動を自動化させていた。歩くときに周りを見なくなったし、ご飯を美味しいと思うことが少なくなったし、気持ちよく空気を胸にふくむこともなくなっていた。イアフォンで聴く大好きな音楽は、ケータイを触りながら、何の感興も起こさなかった。端的に言うと、自分でも気づかぬうちに、毎日が楽しくなくなっていたのだ。

 この2冊のエッセイを手に取ったのは昨日、神戸の図書館に立ち寄ったときだった。既に借りていた、昔ならきっともっと愉しかったはずの本を読みつつも遅々として進まず、ほとんどうんざりしていたとき、僕は図書館の中をあちらこちらと回って、文庫本の棚でこの2作を見つけ、手にとったのだ。彼女の小説はあいにく置いていなかった。角田光代さんの作品は読んだことがないが、最近大きな話題になった『八日目の蝉』を読もうと先延ばしにしていたし、僕が大好きな小説の、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』の単行本の帯に推薦文を書かれていたから(6年前のことだ)、ずっと気になる作家ではあった。エッセイなら、気分転換になるだろうし、角田光代さんとはどんな人なのか興味があったから、手に取るのは見つけた時点で必然だった。

 そして、こんなふうにブログで紹介している通り、彼女のエッセイはすばらしかった。僕の頭の硬直は、ほぐれた。ほんとうに愉しかった。何のてらいもなく日常のことば、ときに話しことばを使って書かれた彼女の2作のエッセイに、僕は、可笑しくてくすくすと笑って、じわじわと胸が温かくなった。僕が毎日経験しつつも、感じることなくやり過ごしている風景や人々や自分自身の感情、幼い頃や20代の頃の(僕も30歳になったのだ。僕も彼女と同じく、20代のときはたくさんお酒を飲んだ。)、甘やく懐かしく、あるいは苦く思い出す記憶、それらが、色合いと手触りと重みを持って現れた。そうしたいろいろの多くは、不思議なほどに彼女の記憶と重なっていた。僕は、彼女ほどに海外にも行かないし引越しもしないし、僕は男として世界を見ていて、彼女は女として世界を見ているのだから、これは一見すると、ほんとうに不思議なことだ。そんなことが起こるのは、本当は退屈ではないはずの、誰しもの日常に満ち満ちた、悦びや驚きや怒りや、自分が人と違う自分だという感覚、それらが過去に流れていっても時折ふと現れてくる記憶への愛着は、たとえ味わうのが難しくても、ほとんど無頓着になりがちでも、それでもきっと誰もが等しくちゃんと知っているからだと思う。そして、彼女はこのエッセイ執筆時にも、今の僕より幾分年上だったから、ちょっとした人生の真実、というか知恵(たとえば「お金を散在するときは、心がまいっている」だとか「お金の遣い方で自分自身ができあがっていく」とか、そういうの)に深く納得させられることもあった。

 この2冊のエッセイを一気に読んで、僕は思った。もちろん、これは僕に(あるいは読者一般に)何か教訓を与えるために書かれたものでは決してないはずだけれど、自分がいくらか深刻になり過ぎて、読書の悦びを忘れつつあるとき、日常への感じ方が惰性になりつつあるときには、それに気づくようにしよう。そして、(多くの「男」がそうであるように)、自分より大きな何かについて、個人的な感受性(たとえば心や肉体の痛みのような)を超えたことについて、深刻そうに、したり顔で語りがちな自分を戒めよう。長らく、まとまった文章を書くときには(Twitterと違って)、かなり堅めの文体で、冗談のかけらもない堅い内容ばかりを書くようになっていた。僕は、普段は冗談を言って人を笑わせるのも、真顔で突飛過ぎる冗談を言って、相手を困らせるのも大好きなのに。これからはここでも、時々ではあっても、自分の目で見て、耳で聴いて、心が感じたことを、あるいは、ふと立ち上がるささやかな記憶を、今の自分がその手触りや肌理を感じられるレベルを超えず(その意味合いにおいては決して嘘をつかずに)、書き留めるようにしよう。

 エッセイを読み終え、音楽を大音量で聴きながら夜道を歩いていた。音楽が止んだ時、夜の静けさの中に、自分の革靴がカツカツと音を立てていることに気づいた。冬の夜、雨に湿ったアスファルトの上で、こんなに靴音がくっきりと大きく響くのだということを、僕はこれまでずっと知らなかった。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)