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スラヴォイ・ジジェク 『暴力―6つの斜めからの省察』

書評

暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

 個人的な話から始めよう。

 1年と少し前、姦通の罪を犯した廉で、イランの女性が石打ちの刑―つまり、首から下を地面に埋められ、死ぬまで石を投げ付けられる刑―に処せられることになったとき、EU(だけではないかもしれないが)が強く抗議し非難したことがあった。私は、EUの見解に全く同意で、彼女が不貞をはたらいただけでそんな目に遭わなければならないのは「不正義である」、とネット上に書いた。そのとき、知った人からほとんど嘲りと侮蔑の入り混じった調子で「あなたの言う正義って何?」という趣旨のきわめて冷淡な返答を受け取った。私は、彼の言わんとしていることが理解できた。「それはあなたの価値観では不正義かもしれないけれど、イランの文化では正義なんでしょう」というわけだ。私は石打ちの刑の残虐さについては何も議論していなかったにもかかわらず、私の言いたいことは分かっているとでもいうように、「死刑の残虐さについて話すのは無意味」と余計なことまで付け加えてくれた。私は、「日本において不倫は死刑を宣告されるほどの重みをもった罪ではありません。それについては日本社会においてはコンセンサスがあると思います。このコンセンサスは普遍的な価値を持ち得ないものでしょうか」とだけ返して、それで「会話」は終わった。

 彼の見方は、日本だけでなく、今日の西欧文明の恩恵を最大限享受する人々のごく一般的な考え方であると思う。そして、私も、できる限りにおいて多様な価値観が共存する社会が望ましいと信じている。それでも私は、このネット上での遣り取りを思い返す度に、反吐が出るような思いがする。当時、イランの石打ち刑の報道およびEUの強い抗議(背後に政治的な打算があったかどうかは知らないが、それでもなお)が、日本ではほとんどその是非を巡る議論がなされなかったどころか、歯牙にもかけられなかったことを非常にもどかしく感じた。石打ちの刑に対して「それは彼らの価値観だから」と無関心でいるどころか、その正当性を認めるような言説(語られないものも含めて)に対して、私は、あらゆる価値観が相対化された絶望的な社会を目の当たりにしたような気がした。過剰な、つまり人をして思考停止に至らしめるほどの相対主義に対抗できる、普遍的な価値観は何か。安っぽいナショナリズム(ショービニズム)や宗教が猖獗する日本では、世界でも稀に見るほどに自国の文化の特殊性を鼻に掛ける日本では、難しいが考えてみる価値のある問いだと思っていた。

 ここで紹介する、ジジェクの『暴力―6つの斜めからの省察』(Violence: Six Sideways Reflections)は、イランの女性の不当な扱いについて直接言及してはいないが*1、この困難な問いに対してアプローチするのに好個の材料を提供してくれた。本書は、暴力に対して、可視的かつ肉体的、言語的、資本主義的な観点から(それぞれ「主観的」「象徴的」「客観的」な暴力と指示される)省察を与えるものであるが、通底するのは、今日の西欧に瀰漫する、不可視の暴力を偽善的な振る舞いで見過ごすことへの、唾棄するほどの嫌悪である。私は、私自身のものをも含めた偽善と欺瞞を見据えることで、私自身の思考の拠り所とする立ち位置を確認することができた。少し長くなるが、引用しよう。
 

 (自由選択を基礎にした、われわれの世俗的な社会において、宗教に実質的に帰属しつづける人々が標準的なリベラリストによっておとしめられる事実が意味しているのは)西洋の「寛容な」多文化主義でいうところの「自由選択の主体」が現れるには、特定の生活世界から引きはがされるという、つまり、自分のルーツから切り離されるという、きわめて暴力的な過程を経なければならない、ということである。
 つねに心に留めるべきことは、この暴力が社会的因習からの解放をもたらし、そのおかげでわれわれは自分の文化的背景を偶発的なものとして経験できる、ということだ。…こうしたイデオロギー空間においてはじめて、われわれは自分のアイデンティティを、とりとめなく「構築された」偶発的なものとして経験できるのである。
 「ポストコロニアル」批評のひとたちは、リベラリズムはみずからの限界に鈍感であると主張したがる。リベラリズムは、人権を擁護する際、それ独自の人権概念を他者に押し付けがちである、と。しかし、自身の限界について自己反省する感性は、リベラリズムによって推進された自律性と合理性の概念があってはじめて可能となる。もちろん、次のような議論はなりたつ―西洋のほうがよっぽど状況はわるい、なぜなら、そこでは圧迫が圧迫であることが忘れられ、自由選択と偽られているからである。(なにが不満なの?これを選んだのは〈あなた〉ですよ。)われわれのいう自由選択は、多くの場合、実際には、われわれ自身の圧力と搾取に同意する、たんなる形式的な身振りとして機能するのだ。だが、ここで重要なのは、形式は大事であるというヘーゲルの教えである。つまり、形式は自律的なものであり、それ固有の効力をもつのだ。だから、強制的に陰核を切除されたり、子供のときに結婚相手を決められたりする第三世界の女性と、痛ましい美容整形を「自由に選択する」第一世界の女性とを比較するときには、自由という形式が大事である。そう、それは批判的反省の空間をひらくのだから。
 さらに、ほかの文化を不寛容な、あるいは野蛮なものとして切り捨てる態度の裏側には、ほかの文化の優秀さをやすやすと認める態度がある。インドにおけるイギリス人入植者の多くが、インドには合理性と物質的豊かさにこだわる西洋人には到達できない深い精神性があると称賛したことを、おもいだそう。〈他者〉を、西洋とくらべて競争のすくない調和的で有機的な生活をおくる存在として、また、支配ではなく協調をめざす存在として祭り上げること、それが西洋リベラリズムの主題のひとつではないだろうか。ここには、もうひとつの操作がからんでいる。それは(他者〉の文化に「敬意」を示すことによって、圧力が意識されなくなることである。ここでは選択の自由までもが、次のように倒錯的に言及される。このひとたちは、未亡人を焼き殺すこともふくめて、自分たちの生活様式を選択したのだ、この生活様式はわれわれにとって嘆かわしく、いとわしいものにみえるかもしれないが、われわれは彼らの選択を尊重しなければならない、と。
 このように、リベラリズムに対する「ラディカルな」ポストコロニアル的な批判は、マルクス主義の標準的なレベルにとどまっている。つまり、その批判は、偽物の普遍性を告発するというレベル、みずからを中立的‐普遍的にみせる立場が実際にはいかに特定の(異性愛的、男性的、キリスト教的)文化を特権化しているか証明するというレベルでなされるのだ。より厳密にいうと、そうしたスタンスは、標準的なポストモダンの、反本質主義の立場のなかにふくまれている。つまりそれは、性(セックス)はあまたのセクシュアリティの実践によって生み出されるというフーコーの考えを、政治的に焼き直したものである。実際ここでは、人権の担い手である「人間」は、市民というものに形を与える政治的実践の産物である。人権は、西洋の帝国主義・植民地支配、軍事介入、ネオコロニアリズムといった具体的な政治を隠蔽し正当化する偽物のイデオロギー的普遍性として、そのすがたを現すのだ。問題は、これが満足のいく批判たりえているか、ということである。(本書pp.180-83)

 われわれ(一般的な日本人)の立ち位置は、社会的因習から「暴力的に」解放されてきたという事情を確認するのには、この日本の70年の歴史を振り返るだけで十分だろう。また、明治維新以前には、死刑を「見物」することも一般的だったのだ。(決してフーコーの『監獄の誕生』の有名な冒頭のシーンだけに現れる、パリに固有のできごとではない。)そして、われわれには自由という「形式」があり、それによって批判的反省の空間を見渡すことが(ある程度は)できる。その上で、改めてイランで、姦通される女性が石打ちの刑で殺されることを想うと、どうだろうか。(以下のYouTubeのリンクはイランの石打ち刑を告発したイギリスの映画の紹介ですが、きわめて残虐なシーンを含みます。クリックされる方は、ほんとうに注意深くあってください。)

www.youtube.com

 ジジェクの、偽善への嫌悪がもっとも露骨に表れるのが『SOS暴力』と題された第1章である。ここでは、ビル・ゲイツジョージ・ソロスといった人々が、経済的な搾取や投機で巨万の富を得る過程で、その過程で無数の人々の生活を台無しにしておきながら、その責任を隠匿するために慈善事業に精を出すあり方が(資本主義が危機を先送りするための必然であるとしながらも)痛烈に批難される。章の締め括りに引用された、ベルトルト・ブレヒト『善人の尋問』という詩は、偽善者を殺す小さな物語の形式なのだが、私はこれを読んで痛快なほどに胸のすく思いがしたことを告白する。 

 ジジェクのこの著作の、もうひとつの通奏低音は、絶対的な(他者)―ジジェクは、倫理的命令の発生源としてのレヴィナス的(他者)と、ナチスの思い描いた人間以下の(他者)‐的としてのユダヤ人とは根は同じであると断じる(p.75)―の他者性の深淵を見据えよというメッセージである。アメリカ・西欧がイスラムに対して「敬意」を払おうとするとき、彼らはイスラム教徒を深淵を湛えた「おとな」にするように対峙しているだろうか、イスラム原理主義のテロ行為を慈悲あるイスラムの教えとは無関係だと切り離すことができると信じているのは、ナイーブな(哲学的)誤謬ではないか。
 したがって、ジジェクは、われわれの言語の使用、言語による象徴化作用が、行為遂行的に(つまり使用するという行為それじたいで)他者を貶め、排除していることに非常に鋭敏で、きわめて説得的にその事実を抉り出す。

 今、われわれが直面している困難のうち、最たるものの多くを本書は扱っている。生々しい肉体的暴力、自己や他者のアイデンティティを措定し象徴化する言語的暴力、資本の現実的で破壊的な暴力、われわれが、それら諸々の暴力を、巧妙に隠蔽する偽善と欺瞞とを媒介して視ていること、極点にまで純化した資本主義の中で、われわれはその生を管理され、あるいはわれわれの生の究極の目標は生きることそのものへと変容したこと、理不尽で無意味なことに、安易に意味を与える欲求に抗わねばならぬこと、消費主体として「自由たれ」と逆説的に命令される一方、〈他者〉に寛容であらねばならぬと同時に、(他者〉の不寛容に寛容でなければならない(=他者に近づきすぎてはいけない)こと、それらについて、われわれは本書から洞察を得ることができる。別言すると、本書は、可視的な生々しい暴力だけでなく、言語(象徴)がその本質的な性質として背負う暴力および資本の暴力を、意識的無意識的に(ここで彼の得意とするフロイトラカンの理論への造詣が賦活されるのであるが)隠蔽しようとする偽善と欺瞞を暴きだし、華麗に分析することで、私たちに現代の暴力の構造について見取り図を与えてくれる。私自身はまだ素朴に過ぎるきらいがあるが、われわれが、より良く深く現代を見通し、ひょっとしたら偽善と欺瞞を駆使する人々よりも狡知になるために必要な手掛かり、性急にならず判断を保留しつつ思考すべき論点を、多分に提供してくれた良書であった。

*1:ただし本書第4章の2つ目の注釈にこのような記述がある。「性的行為に関しては女性が全面的に責任を負うということは、イランでは法的に支持されている。2006年1月3日、19歳の少女が絞首刑の判決を受けた。彼女をレイプしようとした3人の男のうちひとりを刺し殺したと、彼女が認めたからであった。ここにはパラドクスがある。もし彼女が自己防衛をしていなかったら、そしてレイプされるがままになっていたら、彼女は貞節に関するイランの法律によってむちうち100回の刑に処せられていただろう。また、もし彼女がレイプ時に既婚者であったら、彼女は姦通の罪で有罪となり、石打による死刑に処せられていただろう。つまり、なにが起こっても、責任は彼女だけが負うのである。」