Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

Terry Eagleton "The Meaning of Life"

The Meaning of Life: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Meaning of Life: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 私はOxford 大学出版局から出ている"A Very Short Introduction" (←公式サイトへのリンクです)というシリーズが大好きで、興味の赴くままの勉強に(英語の勉強を兼ねて)これまで何冊も読んできました。

 昨年、テリー・イーグルトン氏の『(新版)文学とは何か』―これは今でも大学で文学理論を学ぶ人の必読書とされていて、このブログに書評を書いています―を読んで以来、氏の博識と、知的誠実さに感銘を受けて一気にファンになりました。今では私はiPodにイェール大学での講演をダウンロードして聴いているほどです(YouTubeでも多くの映像が見られます)。氏の専門は英文学(マルクス主義批評)ですが、本書ではいくつかの文学作品が議論の補佐として紹介されるものの(シェイクスピアベケット等。但しベケットゴドーを待ちながら』の箇所にだけは比較的多くのページが割かれています)、議論の軸は、過去の哲学者の遺産です。具体的には、アリストテレスショーペンハウアーニーチェヴィトゲンシュタインマルクスフロイトです。

 本書タイトルは"The Meaning of Life"(『人生の意味』)ですが、この主題について、つまり、"What is the meaning of life?"(人生の意味とは何か?)という問いについて著者の考えが明らかにされるのは、全部で4章からなるこの本のうちの最終章です。したがって、前の3章は本題の伏線ということになりますが、自らは哲学者ではないイーグルトン氏はこの中で、すぐれて哲学的な問い―哲学者によって問われたものであれ、文学作品が私たちに問うものであれ―に私たちをいざないかけます。とは言っても、この本は、哲学によってこの問いを解決した書物ではありませんし、ましてや自己啓発書ではありません。


 第一章:「問いと答え」(Questions and answers)

 イーグルトン氏はここで、「そもそも『人生の意味とは何か』というのは『真の意味での』問いであるのか」と問いかけます。(ここで重要な哲学者としてあげられるのが、既存の哲学においては言語が不適切に使用されることで無用な混乱を招いていたと指摘したヴィトゲンシュタインです。)
 同時に、今日では、人間の生活の象徴的次元とされる宗教・文化・セクシュアリティが、公共圏の周縁へと、私的領域へと追いやられたこと、これらの象徴的次元の各要素は、色褪せつつある公的価値の代わりになるどころか、病理的に堕落している、さらに経済という公共圏に侵されている現状を指摘します。
 『人生の意味』は今や金になるビジネスになりました。そして、金儲けにうんざりした人々は、精神的真実をに目を向け、それを提供する人が金儲けをする、という皮肉があるわけです。
 本章末では、イーグルトン氏が他の著作でも行なってきた、ポストモダニズムへの批判―ざっくりとまとめると、「問うことばかりに熱心で回答を与えることには熱心でない姿勢」「相対主義多元主義)の限界(無機能性)」への批判―がなされます。
 「人生には所与の意味がないという事実によって、個人が各々の人生にどんな意味があるのか知る地平が開けるのだ。もし私たちの人生に意味があるとしたら、それは人生を捧げるものであって、人生に予め備わっているものではない。」 本章最終ページでこう述べるイーグルトン氏はしかし、「それではかなり味気なくて退屈なので(rather bland and boring)」、以降の章で、「私たち各人が違った仕方で人生を構築することができる」という味方がどこまで有効であるのかを検証していくとして本章は終わります。


 第二章:「意味の問題」(The problem of meaning)

 異なる概念の「意味」(心にある意図としての意味:meaning as act および、ある言語システムの内部で対象を指示するものとしての意味:meaning as structure)が検討された後、ショーペンハウアーの思想が紹介されます。ショーペンハウアーによれば、「意志:the Will」という強欲で妥協しない力学が、すべての現実という束の間の産物を生んだのであり、しかもそれは讃えられるべき理由からではなく、その力学の維持保存のためなのだ、私たちは、人生に意味があるように感じているが、それは「意志」によって、自己欺瞞の機制(意識:consciousness)を育まれているからだ、ということになります。(本書の別の箇所では、「意識=consciousness」は、マルクスの「イデオロギー=ideology」に、フロイトの(無意識の派生物に過ぎないとされる)「自我=the ego」に対応させられます。また、人為を超えた、個々人を支配する力学として、「資本=capital」にも対応させられます。)イーグルトンによれば、ショーペンハウアーほど率直かつ残酷に、人間の存在が、最も穢(きたな)く、そして笑劇的(farcical)なあり方で無意味であるという可能性と向き合った哲学者はいません。そして、今日でもなおショーペンハウアーが読まれるべき価値があるのは、上の事実に加え、彼が言っていることの多くが真理だからなのです。


 第三章:「意味の翳り」(The eclipse of meaning)

冒頭、チェーホフの『三人姉妹』という戯曲の引用から始まります。

「そんなことに意味があるの」
「意味だって?外を見ろよ。雪が降ってる。じゃあ、雪が降ってることの意味は何だ?」
((注)邦訳は私によるものです。)

という有名な遣り取りです。一面では、私たちがどう解釈しようと、私たちが理解する気象法則から、雪は必然的に冬の到来を意味します。雪に(というより、意味が対象とするすべてに)本来的に備わるこのような本源的な意味は、本書では"inherent"な意味と定義されます。一方、劇中、男が皮肉たっぷりに雪を指差すとき、「雪が降ってる」は、無意味さのシニフィアンとしても機能しています。本書では、本来の性質から離れ、付与された、解釈されるべき意味を"ascribed"あるいは"assigned"と表しています。(「私にとっては雪は赤く熱いものだ」というような言説は"subjective"という形容詞で指示されます。)
 かつて、意味は遍く存在しました。意味が廃れるという事態はチェーホフコンラッドカフカベケットモダニストの作家を驚愕させ、落胆させるものでした。こうした作家の作品には、秩序ある世界への追憶があります。意味の衰退は、苦悶であり、スキャンダルであり、耐え難い収奪でした。
 もっとも、私は、本書p.61 「もし世界が非決定的であるならば、絶望もまた不可能である」「絶対的価値がない世界にあっては、荒びでさえも絶対ではない」という記述には、救われる思いがしました。
 意味の不在、不条理を描き、モダニストとポストモダニストの事例の狭間で座礁した、不思議な魅力を湛えた作品として、ベケットの『ゴドーを待ちながら(Waiting for Godot)』が論じられます。二人の男が、ゴドーという男の到着を待つ。待つ、来ない。幕が閉じる。第二幕。待つ、来ない。二人は自殺を試みるが失敗する。終わり。…本章の前半部は、主に、この『ゴドーを待ちながら』の解説と解釈に充てられ、ここから、"inherent”な意味についてのさらなる考察が考察され、詩の意味との類比から、人生の意味は、自分と現実との相互の働きかけから生まれてくるのだということが示唆されます。
 私たちが詩を解釈するとき、完全に恣意的な仕方でそれを行うことはできないように(「雨ニモマケズ」という一節を、「私は珈琲が好きだ」という意味だと私が勝手に解釈することは決してできません。所与の言語体系からの全くの逸脱だからです)、人生の意味は、私たちが決して選択できない外的な制約―譬えば、言語的・動物としての人間的制約―から自由であることはできません。その意味で「自分で自分の人生を決めることができる」というのは幻想に過ぎないのですが、《私》という存在がそれらの外的な要因によって形づくられていることもまた、事実なのです。

 第四章:「人生は自分が作るものなのか」(Is life what you make it?)

 いよいよイーグルトン氏による、人生の意味が論じられます。特徴的なことは、個々の人間の価値観の違いが非常に大きくても、われわれは「ヒト」という動物であるのだから、違い以上に多くの共通点を持っているはずだというところから議論が始まることです。(差異に注目したがる、イーグルトン氏のいう「ポストモダニスト」とは対照的です。)したがって、ここで与えられる答えは、かなりの普遍性を持つものだと確信します。
 もっとも、これまでの哲学的な考察にもかかわらず、ここで与えられる答えは哲学的なものではありません。そのことについて、イーグルトン氏はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を引いて説明します。
 

たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されていない。そしてまさにそれが答えなのである。(6.52)

生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
 (疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由はまさにここにあるのではないか。)(6.521) *1

岩波文庫版 野矢茂樹訳)

 イーグルトン氏の解釈はこうです。「おそらくヴィトゲンシュタインが意味しているのは、人生の意味自体が偽の問いだというのではなく、『哲学に関していえば』それは偽の質問になるということである。」
 イーグルトン氏は、人生の意義が拠って立つものとして、「幸福(happiness)」と「愛(love)」の2つを(お決まりのことばを使うことに少し躊躇しながら)論じています。この2つは、何かを実現するための手段ではないという意味で根源的な価値であり、また、「なぜなのか」と合理的に問うことができない点で共通しています。(譬えば私たちは、数分後に死ぬと分かっている人に水を与える行為に対し、「なぜそうするのか」哲学的に答えることはできそうにありません。)
 前者の「幸福」は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』に現れるアイディアであり、われわれが直感的に思う「幸福」とは性質を異にしています。アリストテレスの言う「幸福」は、英語では通常"well-being"と訳されます。彼が重視したのは、心の状態よりもむしろ、善の実践―善なる気質を創る行為の仕方、人間の能力を創造的に発揮すること―でした。ここでの幸福とは自己成就の問題なのですが、何かを達成することが意味があるのは、その人の一生を通しての品格の文脈の中においてであって、(人生を登山に喩えるイデオロギーのように)離れ離れの山々の頂上に踏破したということをもって意味を成すのではありません。
 後者の「愛」は、性愛などではなく、個人の感情からは純粋に離れた意味での「愛」であり、また、「幸福」と同じく、内面よりは、生き方を通した実践としての「愛」を指します。この議論は、著者の思想の基盤と分かち難い、キリスト教的価値観が背景にあることは否定できませんが、フロイトの思想が背景にあることも重要です。人は欲望―生の欲動―をなくしては(一般に)生きていけません。別の意味では、〈欲望=生の欲動〉とは、対象の欠如という形で、〈欲望=生の欲動〉が最終的に私たちにもたらす死を反映しているのです。この意味で人生―それは、〈欲望=生の欲動〉によって駆動され続ける―とは死の先取りです。私たちが生き続けられるのは単に、死を骨の髄にまで染み渡らせて活動しているからに他なりません。そして、死を想うこと、それぞれの自己が死を想うことで、互恵―伝統的な意味での愛―が生まれるのです。私は、これは仏教で言う慈愛にきわめて近い考え方ではないかと思いました。いや、むしろ磨かれた思想として、仏教の説く慈愛とは普遍的な価値なのだと確認できたと言った方が正確かもしれません。

 幸福と愛によって生まれる互恵(reciprocity)に基づく、理想的で現実的な個々人の生の「モデル」―これは、本書末に、美しい喩えによって示されます。それは、ジャズの即興演奏です。本書の一番魅力的な箇所ですから、該当箇所を(ざっくりと)訳して紹介します。
 

それぞれの演奏者はかなりの程度、好きなように自己表現をする自由があります。でも、各演奏者は他のすべての演奏者の自己表現としての演奏に敏感に耳を澄ませて、各々の自己表現をするのです。それぞれのメンバーが、他の皆の自由な表現を基盤にしながら自由に演奏することで、複雑なハーモニーが生まれます。それぞれがより美しい音楽を奏でることで、他の皆はインスピレーションを受け、さらなる高みに到達します。「自由」と「全体の利益」の対立はここにはないにも拘わらず、そのイメージは全体主義とはまったく逆です。それぞれの演奏者は強制や自己犠牲ではなく、純粋な自己表現において「より大きな全体の利益」に貢献しているのです。ここには自己表現がありますが、音楽全体の中での没我を通して初めて、それは可能になるのです。達成もあります。でも、自己の能力を伸ばすという意味での成功が問題なのではなく、達成―つまり音楽そのもの―が、演奏者間の関係の媒体として働きます。独創的技術から得られる悦びがあり、自由に力を発揮することができるから、活躍という意味での幸福もあります。この活躍は互恵的ですから、私たちは、間接的に、類比としてですが、愛についてさえ語ることができます。もちろん、こうした状況を人生の意味として提案するのも悪くないでしょう。人生を意味あるものにするという意味においても、また、―もっと議論を呼ぶ言い方ですが―、私たちがこんなふうに行動すると、私たちは、自身の持てる資質を最高に発揮できるという意味においてもです。

(本文でバンドへの直接の言及はありませんでしたが、The Buena Vista Social Club という脚注とともに1ページ大の写真が掲載されています。)

100ページ程の薄い本ですが(出版時のハードカバーは200ページ近くあるらしいですが)内容が濃く、このブログを書くにあたって読み返しながら、改めて勉強になりました。とてもスリリングな本です。

(以下は、本書で議論の重要な素材となった文献の、ごく一部です。)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)

意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

*1:イーグルトンのこの著作では、6.251と表記されていますが(p.94)誤植です。出版社に連絡し回答があったので、次の版からは改訂されるはずです。