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3月終わりの真昼の電車で音楽を聴きながら

エッセイ

 柔らかい陽が差す、昼の環状線で音楽を聴いていると、ふと打たれた。この音楽には始まりがあって、今この瞬間の調べは、ある意味、その始まりに決定的に宿命づけられている。それなのに、この音の流れは、今この瞬間、この空間を豊かな膨らみで満たし、すぐやってくる「次の今」を無限の可能性の広がりだと錯覚させる。と思うと同時に訪れる「次の今」は、音楽の奔放は、常に、美しい必然として現れ、僕の身を浸す。

 真昼の電車でこの思いに囚われたとき、僕はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んでいた。二人の浮浪者が、ゴドーと呼ばれる人物を待ちながら、歪んだ時間の中でひたすら暇つぶしをする。彼らがなぜゴドーを待っているのかは明らかにされないし、結局待ち人は現れない。不思議な演劇だ。そこには目的が、意味が、時間が欠落している。僕は、その欠落を自身に重ねないでいるほどに幸福ではない。それでも、この演劇の世界に浸ることは、不安な体験であるにも拘わらず、音楽に身を浸す悦びに似ている。

 『ゴドーを待ちながら』は、アリストテレス以降の演劇の伝統をことごとく打ち破った問題作だそうで、あまたの研究と解釈があるそうだ。詳しいことは知らないが、少なくとも僕は、このドラマが「ドラマティックではない」ことを自然に受け入れた。待つふりをしながら、退屈をやり過ごすのは、不安だ。行為の目的が欺瞞で、それに騙されているように振る舞いながら、意味の色褪せた世界を泳ぐのは、虚しい。それでも、僕にとっては、結局のところ、そういう生のあり方がいちばん馴染み深いのだ。さらに言うと、この『ゴドーを待ちながら』という演劇が僕を強く揺さぶるのは、「それでもなお」この作品が意味あるものを明瞭に描いていると直感するからだ。

 音楽の余韻は、「今ここ」で僕を浸す。僕は、すぐに訪れる音に期待を寄せる。音楽に目的や意味は必要ない。ドラマがなくともよい。音楽には、始まりがあり、それによって全体が宿命付けられ、終わりがある。音楽が場を満たすとき、時間は歪む。車窓を流れる醜い建物と看板は、眠りに落ちる手前の意識のように、遠のく。

 僕の人生は、その始まりに決定的に規定され、終わりまで流れる。先のことは分からないが、あることが訪れたときには、そう、これが必然なのだと受け容れることを繰り返しながら。たとえそれがどれほど理不尽なことであっても。

 音楽や演劇を人生に重ねたと云うと、あまりに陳腐で気恥ずかしいが、それでも僕は、昼過ぎの大阪環状線の車内で、モーツァルト交響曲40番第4楽章を聴きながら、『ゴドーを待ちながら』のページを繰っていたとき、こんなことを想って、たまらない気持ちになったのだ。

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)