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烏賀陽弘道 『報道の脳死』

書評

報道の脳死 (新潮新書)

報道の脳死 (新潮新書)

 3.11からしばらくの後、全くと言ってよいほどTVを見なくなった。口幅ったい物言いかもしれないが、ただ騒々しく、穢らわしいとまで感じるようになったからだ。

 事実、3.11の報道に対して、日本のTVは(それまでと同様)無力だった。地震津波の直後は、いわゆる当局発表そのままの「20kmの同心円」が描かれた日本地図を背景に、SPEEDIのデータはおろか、風向きすらも考慮に入れない、役に立たない解説がだらだらと流れた。ドイツ気象庁のウェブサイトは早くからトップページで日本地図と放射能の飛散状況を提示していたにも拘わらず、だ。その後、甚大な放射能被害について、当局や東京電力株式会社への、真実を明らかにするような責任追及は何もなかった。東電の、資本・人的ネットワークが、この国の権力構造とどのように、どの程度関係しているのか、TVからは見えてこなかった。絶望した。東京電力の2010年に広告費として260億円もの金を使っていたのを知ったのは、昨年9月の英エコノミスト誌を通してだった。

 新聞でも状況は似たようなもののようだ。このクライシスの最中に、ニュースと呼ぶべきでない、「微笑ましい」逸話を、各社揃ってニュースとして取り上げていたのだ。たとえば、津波で流されずに生き残った、復興のシンボルとなるべき松の木の話など。

 僕は、こうした「パクリ」の記事が存在することを、本書の著者である烏賀陽氏のウェブ上での報告を読むまで知らなかった。そうして、氏が、被災地を取材し報告する情報にいちいち愕然とした。原発近くのコンビニエンスストアが丸ごと放置され、腐臭を放ち、ATMは破壊され、金が奪われていたというこの記事は、その中のただ1つの例に過ぎない。

 著者の烏賀陽氏は、1986年から2003年まで朝日新聞社に勤務しておられ、僕のような新聞社の内情に疎い人間には信じがたい「内輪の論理」をよく知っておられる。どうして、ニュース価値のない記事が記事になるのか、どのようにして、日本のマスコミがアジェンダ・セッティング(「より善い輿論を創るための議題設定」)の能力を著しく欠くようになっていったのか、肌で知っておられる。そうした話を本書で詳しく知り、僕はただ悔しいと思った。僕たちは、僕たちが制度の中に当然持つべきものを欠いているのだ。

 『報道の脳死』というタイトルは、ジャーナリズムの理念を体現する機関としてのマス・コミュニケーションが、日本において死滅したことを示している。具体的には、市民の自由のために、権力から独立して権力を監視し、真実およびその意味(世界像の中の位置づけ)を伝え、アジェンダを設定し、開かれた言論空間を用意するべき機関が、日本においては3・11以後、機能不全にあるということだ。1981年に生まれた僕にとっては、そうした役割をかつて新聞社が担ったのだという記憶はない。(権力に与するマスコミの姿は知っていても。)ただ、とりわけ3.11以後、日本の旧メディアに強い不信感を持つようになった僕にとって、それらは死んだも同然だ。

 著者が書くように、インターネットがこれからの報道のメディアとして主流になるのは間違いない。ただし―これも著者が書くように―現時点では、インターネット上には、価値ある記事にお金が支払われる仕組みも、次世代のジャーナリストを育てる土壌も、まだない。烏賀陽氏は、その両方をネット上で実践しておられるユニークなジャーナリストだ。氏の普段の報道の仕事に敬意を払うとともに、高い倫理観と問題意識をもったジャーナリストを育てる試みを応援していこうと思っている。