Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

この1週間ほどに観た映画

いつもは、ある程度まとまった長さの分量を書いているけど、休暇中、メモのようにさくさくと紹介です。

『用心棒』(Yojinbo)

七人の侍』のトリックスターとしての三船ではなく、渋い、剣の達人としての三船が見られます。黒澤の描くのは、時代劇のチャンバラでは決してなく、ほんとうに日本刀で人を殺しているのかと錯覚させるほどの映像です。三船扮する「用心棒」は、相対するやくざが抗争する宿場街に立ち寄り、片方のグループの用心棒を買って出る。と思えば、もう片方のグループに鞍替えする。金は受け取っても誰かに渡すか、返してしまう。汚いことが嫌いで、情に掉さして危ない目に合う。「用心棒」の目的は、やくざ同士の抗争が激しくなるのを可笑しみながら見物して、見物しつつも(正義感からというより好奇心から)関わりながら、両方を自滅させることにあるようです。
 黒澤の描く世界は、勧善懲悪の単純なものではありません。そこには、ヒューマニティーがあると同時に、人間の卑怯さがあり、弱さがあり、ユーモアがあります。かつて、僕のアメリカ人の友人がビールを飲みながら、「黒澤が、人間について描いていないことは何一つない」と(半ば興奮気味に誇張して)言いましたが、黒澤映画を観ていくたびに、これはひょっとしたら強ち誇張ではないかもしれないなと彼への共感を深めています。


花とアリス

 岩井俊二監督作品。高校に入ったばかりの女の子2人と、1つ上の学年の何だか無気力な男の子の先輩との三角関係が主軸になっている。ただ、この映画は、恋愛よりも、蒼井優(アリス)と鈴木杏(ハナ)の間の、揺らぎつつも確固とした友情、もっと言えば、画面からあふれるほどの、蒼井優の、かわいさとエネルギーにある。(実際、映画の中で、内面や環境の奥行きを持って描かれていた登場人物は、蒼井優扮するアリスだけだった。)映画クライマックスの、蒼井優の踊るバレーは圧巻。蒼井優の父親役で登場していた平泉成はよかった。岩井俊二の映像はやっぱり、美しい。僕はこの監督の描く悲劇の方がずっと好きだけど、たまにはこういうのもいい。


『ウェイキング・ライフ』(Waking Life)

 実写映画を、コンピュータを使ってアニメーションしたという異色の作品。空港から車でどこか(「どこかだよ(somewhere)」)に連れて行かれた主人公は、そこで、たくさんの哲学者らしき人の話を聞く。自由意志やポストモダニズムについて語る彼は実に雄弁だが、主人公はただ聞いているだけで口を挟むことはない。目が覚めてみるとそれらは全て夢なのだ。いや、目が覚めても、またそれは夢なのだ。こうして現実はどんどん遠のく。現実と言える現実は、この映画の中には、ない。
「この現実はひょっとしたら夢なのかもしれない」というような愉快な空想はだれもが子どもの時にしたのではないかと思う。これを無限の連鎖にまで推し進めようとしたときの絶望を、皮肉と諧謔たっぷりに描いた傑作。夢の中で現代哲学者が薀蓄を垂れるのは、彼らのことばが、ともすれば現実から浮遊している皮肉を思い起こさせると同時に、私たちは、「覚醒しているとき」には忘れているだけで、夢の中にこそ「ほんとうのもの」を見出しているのではないかということにも思いが至る。映画の後り近くなって漸く、主人公が受動的でなくなり、言葉を発するのは、夢の中に現れた女性の語る、ソープ・オペラのろくでもない案にことばを挟むときと(夢が現実に漸近している)、夢の中の男に「夢から覚めさせてくれ」と懇願するときだけ。現実が遠のき、夢が前景化すると、現実の退屈さ(それにも拘わらず、そのかけがえのなさ)が浮き彫りになり、同時に夢の深みと謎めかしさが顕現しているようにも感じられた。


『告白』

 中学生2人が、女性教諭の幼い娘を殺害。その女性教諭が復讐のために、HIVウィルスを持ったパートナーの血液を2人の給食の牛乳に入れる(あるいは入れたと嘘をつく)。話題になった映画だけど、僕にとっては、いちいち「何でやねん」と突っ込みたくなる残念な筋書きだった。この中学校には、幼女を殺した中学生2人、そのうちの1人と付き合って後に殺害される女の子以外に、個性をもった中学生は誰一人として現れない。(他のすべては、すべて同じような、まったくのバカとして描かれている)この中学校の教師は、復讐する女性教諭以外現れない。そして、誰も人間的な深みがなく、人格や行為の説得力がまるでない。誰も隠そうとしているわけではないのに、何故か、大きな事件の真相が決して公にならない。(この社会では殺人は全て私的に処理されるのか?あるいはそうあるべきなのか?)重い映画だと喧伝されていたが、まるで珈琲にたらしたクリームの渦を辿るような、頼りなく恣意的な映画だと思った。素材が重いだけに、その容れ物としてはまったく、だめだ。

『π』

 数学の話を期待していたが、数学の話はあまり出てこなかった。(数学の話はもっと出てきてもよかったな。)白黒映像で、精神が正気と狂気のはざまにある主人公―彼は、数学で世界の一切を理解できると信じており、株式市場の予測を目論む人物に、あるいは数を神と同一視するユダヤ神秘主義思想の人物に付け回される―の錯乱を描き切っています。何度も繰り返される「6歳の時に太陽を見つめた…」という主人公自身のナレーション、頭痛にあえぎ、洗面台で薬を飲み、注射を打つ…。コンピュータに現れる数字の列に罵声を浴びせ、彼の精神はますます不安定になっていく…。僕は、どういうわけか知らないが、狂気の淵で均衡を保とうとしている人物を描いた作品に魅かれることが多い。この映画も、すてきだった。