読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

竹田青嗣 『自分を知るための哲学入門』

書評

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

「哲学」とは、自分や世界の深淵を覗き込むことができる、高尚な知的営為に違いない、そんな予感から、僕は、高校生の頃には、「哲学」というものに漠然とした憧憬を抱いていたように思う。大学に入学した年に初めて買った哲学書は、カントの『純粋理性批判』であり、経済学の講義で一部分だけが試験範囲になった、マルクスの『資本論』の第一巻だった。それまで、大した読書経験がないのに、自惚れだけは強かったから、日本語で書かれ、長く読み継がれ名著とされてきたこれらの本にまったく歯が立たなかったことに少なからずショックを受けた。後になって、こうした本は独力で読むには、まして高校を出たばかりの18歳の子どもが読むには難しすぎるのであって、指導を受けたり、解説書を傍らに置きながら、仲間たちと協力し合って、長い時間をかけて読むものだということを知ったのだが、いったん「哲学書は極端に難しい」という意識を植え付けられてしまったためか、最近まで、哲学書には、劣等感と憧憬とが入り混じったような変てこな気持ちで接していた。

 大学を出てからは、精神科医が書いた大好きな本の中で何度もニーチェからの引用があったり、興味に迫られて読んだ本の議論が、例えば、J.S.ミルや、例えば、ボードリヤールや、例えばベルクソン、例えばフーコーなどの思想を基盤としていたりというようなことがあって、いつしか「哲学」は、「いつかはきちんと読まなければならない」という、先延ばしの悪癖のある僕の前に、いつもそこにある宿題としての地位も占めるようになった。

 哲学書だけは買ってあって、なかなか手に取ろうとしない怠慢な僕が、ふと本棚の奥に、昔買ったこの本が眠っているのを見つけて手に取ってみたのは、このような先延ばしに自分でもうんざりし始めてきたときだった。

 この本がユニークなのは、最初の90ページをも使って、僕が上に書いた、哲学書を読むのに逡巡しつつも、憧れだけはどこかでくすぶっている、「あの思い」を、著者が、著者自身にも共通する思いとして、自身の人生体験と重ね合わせながら誠実に綴っていることだ。これだけで、僕はもう魅せられた。

 その後の解説は、ソクラテスプラトンがどういった意味で独創的だったのか、デカルトやカントが、どのような意味で重要な哲学者であるのか、著者が専門とするフッサールらの現象学とは何か、ニーチェハイデガーの思想は、それまでの思想の何に反駁したのか、現代思想の抱えるアポリアとは何か…というようなものだ。著者自身が心がけたというように、それらは(知的な読書を妨げない程度に)できるだけ平易に記述されていて、一読すると、哲学は2000年以上も、同じような問題を(たとえば主−客が一致するかどうかという問題などを)原理的なレベルでずっと考え続けてきて、時折現れる大哲学者に問題をひっくり返されてきたのだな、ということがよく分かった。また、例えば、カントやニーチェフッサールなどの思想の独創性や意義も(この本に書かれてある範囲で)よく分かったが、もし、原典を読む際に、彼らが、それまでの哲学で常識であったどのようなことに説得的に異議を唱えたのか、という歴史的背景の知識がなければ、やはり読んだり理解するのは苦しいだろうな、とも思った。

 現代思想ですぐに読みたいなと思っている本は何冊かあるのだが(特にニーチェボードリヤールの著作)、竹田の他の著作から、基本的な背景知識を勉強しながらの併読となるかもしれない。平明で興味深い解説書であると同時に、哲学を愛する著者の息吹が聞こえるような、哲学の初学者にとって格好の著作であると思う。