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ミラン・クンデラ 『ほんとうの私』

書評

ほんとうの私

ほんとうの私

以前『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』を読んだ僕にとっては、この作品はクンデラ3作目となる。本作はハードカバーの翻訳で200ページほどの小品で、前2作が世界文学の中で燦然と輝く大傑作なのに比べると、やや目立たない印象があるかもしれない。それでも、僕は、この作品を非常に丁寧に書かれた、奇妙で、とても面白い小説だと思った。

 原題は、L'identité (『アイデンティティ))。広告会社に勤める、老いの徴候が現れ始めた女性を軸に物語は展開する。彼女と同棲する経済力のない年下の男が奇妙な手紙(匿名で、「私はスパイのようにあなたの後をつけています。あなたは美しい、とっても美しい」と記した手紙)を、彼女にそっと届けたのだが、彼女がそれを自分の下着の中に隠しておいたこと、彼女が次の手紙を楽しみにするようになったことで、彼女は彼にとって、もはや以前の彼女ではなくなってしまった。それは、同時に、彼女自身のアイデンティティが揺らぎ、ますます不確かになり、変質し、最後は崩落の危機に陥ることであった。物語は、アイデンティティの支えがない、もはや現実と幻想とが交錯した場所で終焉を迎える。

匿名のストーカーじみた手紙を受け取り、心ときめいて箪笥のブラジャーの中に隠しておく中年女性は、言うまでもなく、滑稽だ。これは、この作品の中でもあくまで1つの例に過ぎないが、「滑稽」というのは、クンデラの小説を形容するのに、しばしば適切な語だと思う。それは、生と性の哀しみを内包した滑稽さであり、「それでもなお」悲痛に生きていくわれわれを包み、闊達に笑うような滑稽さだ。