読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

黒澤明 『生きる』

映画評

 「生きる」とは何であるか、これほど困難で切実な問いは他にない。
 
 この作品の主人公は、胃癌に冒された、30年間無欠勤の役所職員だ。真面目ではあるが、日々を無難に、惰性で過ごしてきた彼を、黒澤は「本当の意味では生きてこなかった」と断じる。或いは、主人公自身も、自分が間もなく死ぬのだと知って、これまで「生きて」こなかったことを、涙を流して悔恨する。
黒澤が見出した(本当に)「生きる」ことは、惰性の対極にある。彼が描くのは、厳しく、同時に温かい心象だ。

余命幾許もないと知った主人公は、酒を飲み、独り大正時代のラブソングを歌い、涙する。(命短し。恋せよ、乙女。…)天真爛漫な女性部下に、うっとうしがられるまで(つまりその関係が惰性になるまで)「一緒にいてくれ」という。(彼は全く不器用な男なのだ。) 死を覚悟した彼は、煩雑な役所手続きの中で役所内をたらい回しにされ頓挫していた、公園建設の計画実現に向け、身を粉にして働く。

朴訥とした彼は、華麗なリーダーシップを発揮することはできない。公園のために懸命に働き、目立たぬままに死ぬ。物言わぬようになった彼の功績を軽んじ、手柄を横取りしようとする人たちもいる。

彼が死んでも、結局役所は何も変わらない。無責任な人間たちによる、仕事のたらい回しは相変わらずだ。

男は死んだ。しかし、彼は荒地に公園を遺し、本当に「生き」始めた彼は、一握りの人たちに「生きる」とは何か身をもって教えた。

生きることとは、本質的に孤独な営為であり、惰性の対極に位置づけられるものだ。決して華やかではない彼の生き方が私たちの胸を打つのは、私たち誰しもにとっての陥穽である、惰性的な日常を彼は脱却し、意欲的・主体的に平凡な日常を生き抜いたからだ。私たちの日常は、通常はドラマティックなものではないのだから、黒澤の提示してみせた物語は、「生きる」という主題において、普遍的であり、本質的なものなのだ。

ちなみに、主人公を演じるのは、『七人の侍』で武士のリーダーを演じた志村喬。ここにはそれとは全く異なる志村喬がいる。