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黒澤明 『七人の侍』

映画評

 

 桁外れの映画だ。

 今まで自分が時代劇と思っていたもの、大河ドラマはなんだったのか。確かに、これまでの時代劇が鼻につくことはあった。現代のテレビ文化にぴったり合うように、現代人が付け加えたチープな華やかさ。荒々しさ、猛々しさ、血生臭さのない殺し合い。大人になってから、好んで観た作品は不幸にもひとつもない。

 この映画は、そうした現代のコマーシャリズムの中で増産されてきた時代劇とは一線を画する。一線を画するという物謂いでさえ、この映画に対して失礼かもしれない。この映画を観てしまうと、今つくられている時代劇は、幼稚園の劇の発表会のようだ。

 まず、役者たち、志村喬をはじめとする役者の侍の胆力が違う。僕が6年間剣道を稽古していたとき、しばしばそうした精神論が語られることがあった。黒澤も剣道の稽古をしていたからであろうか、日本刀での命の駆け引きをすること、一瞬の火花のように一撃で相手を殺すこと、僕は当然ながらそういう経験はないに決まっているのだが、黒澤は、そういう世界に生きる侍、戦国時代の殺し合いを、白黒の画面の中に、鮮やかに甦らせる。だから、彼らの胆力に恐れ入り(これは演技なのか?)、彼らの激しい戦闘を、一瞬の命のやりとりを、現場で見ているような錯覚を覚えることになる。志村演じる侍のリーダーと対照的な、三船演じる破天荒な農民上がりの兵の魅力もたまらない。あの闊達さ、破天荒を演じるような役者が存在した事実があったことだけでも奇蹟だ。

 対照的な2人。

 侍に用心棒を頼んだ農民たちの描き方もまた、鮮やかだ。黒澤は彼らを単なる弱者の集合として描いていない。(それは、小学校の社会科の教科書の世界だ)。農民たちは、野武士を恐れる存在でありながら、落武者を襲って盗品を蓄えるような賢しさをもち、ときに感情を爆発させて怒り、ときにからからと笑い、怯え、戦い、固唾を呑む。ひとりひとりが違う人間として立ち現れ、物語を彩る。

 黒澤の映画は、人間性をすべて描いている、と言うアメリカ人の友人がいる。この映画で描かれているものだけでも、勇気、恐怖、憎悪、歓喜、絶望、恋慕…きりがない。それらを探究し、鮮やかに描出していながら、この映画はちっとも難解ではない。そして、背景となる時代も違うのに、この作品が時代や国を超えて人々を魅了し続けるのは、そうした人間の本質の一端を描くことに成功しているからに違いない。

 あらためて、『七人の侍』は、ずば抜けた作品だ。3時間を超える大作だが、その面白さから長さは気にならないほどだし、DVDなら2枚組みになっているから、誰もがタイトルを知るこの映画をどうか敬遠せずに見て欲しい。