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廣松渉 『今こそマルクスを読み返す』

書評

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

 私はマルクス主義者ではないし、廣松とも世界観を異にする。それでも、本書で紹介された数々のマルクスの炯眼には瞠目しきりであった。

 「意識とは意識された存在意外のなにものでもありえない。そして、人間の存在とは彼らの現実的生活過程の謂いである」

 「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、精神的、生活過程一般を規制する。人びとの意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」

 マルクスは、資本主義制にあっては労働者は「賃金奴隷」であると糾弾した。過激な物言いである。しかし、資本主義制が、所謂「剰余労働」を隠匿し、労働者をして全労働を(自分のための賃金を稼ぐ)「必要労働」であると錯覚せしめる巧妙な装置であることは、資本による労働者の包摂的支配についての廣松の解説を読み、ある程度は首肯した。今日のように、具体的に資本家の顔が見えず、抽象的資本がわれわれの全生活を包摂しているように見える時代には、説得的な議論である。

 しかし資本主義を謳歌するわれわれは、廣松の共産主義社会の夢想に満足することはできない。マルクスが、あるいは廣松が「自由」と云うとき、われわれは、この資本主義社会以上の自由を期待できるだろうか。あるいは、人々の欲望は如何に解放されるのだろうか。端的に言って、楽しい社会なのだろうか。もっともマルクスは、未来社会の展望についてはほとんど語っておらず、この点については廣松の思想が披瀝されるのであるが。

 資本主義の矛盾は枚挙に暇がない。地球規模での経済格差、生態系の破壊…廣松も触れているが、今日では誰の目にも明らかだ。資本は暴走する。われわれには、歯止めをかける何かが必要であるが、未だわれわれはそれを手にしていない。

 本書の初版は1990年だ。当時「今こそマルクスを読み返す」としたら、当然、20世紀の大実験であった計画経済共産主義社会はなぜ破綻したのか、そこから語られねばならなかったはずだ。廣松に言わせれば、国家指導者によるマルクスの誤った解釈に拠ってということになるのかもしれないが、マルクスの名を冠した思想が、何億もの人間を殺戮したのは歴然たる事実なのだから。そうした後で、西側陣営の資本主義の内包する欠陥を、マルクスの資本への根源的考察から剔抉するという次序を踏むべきだった。私は、それが知的誠実さではないかと思う。

 誤解されないように改めて申し添えておくと、私は、本書で引かれたマルクスの深い洞察に感銘を受けたことを隠さない。廣松の解説を通して、マルクスの思想についてずいぶん勉強させてもらった。21世紀の文脈にあって、この19世紀の天才から何を学べるのか、今度は私自身が考えてゆくつもりだ。