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地球規模の慈善事業と資本主義の妖しき蜜月(The dark alliance of global philanthropy and capitalism)

 2015年12月1日付けで発信された、アル・ジャジーラのオピニオン欄の翻訳です。2000字を超える、やや長めの文章ですので、お時間のあるときにどうぞ。原文はこちら。→The dark alliance of global philanthropy and capitalism - Al Jazeera English

 

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 慈善事業において複数アイロニーが存在するというのは、秘密でも何でもない。人は、貧者の背の上に立って、あるいは地球を収奪することによって、富める者となる。そして、人は、自らの富の一部を慈善事業に差し出す。これは個人にとどまらず、特定の世界秩序から利益を得、所得の低い国々に開発援助を提供しているいる国家全体にあてはまる。

 そうした「汚い」マネーが、自らのの善行の見返りを求める財団や大学によって、不平等と環境劣化をさらに長引かせる市場に投資されていることは、二重の意味で皮肉である。清廉なる慈善事業の時来たれり。それはすなわち、価値ある大義のための富の創出である。富の創出は、それが取り組まんとする当該諸問題を長引かせることはない。

 心痛む事実は、多数のグローバルな慈善財団が、化石燃料産業に投資を行っていることだ。その中には、環境問題への取り組みを銘打った寄付、また、気候変動のための寄付が、自社のポートフォリオの少なからぬ割合を示す企業も含まれる。

 ハーバード大やヴァンダービルト大を含む主要大学は近年、アフリカでの問題の多い土地取引に投資される寄付金を所有していたことを暴露された。昔ながらの燃料産業については言わずもがなだ。この二つの大学は、将来、世界の社会的、環境的病理に取り組む卒業生を送り出すことを熱望しているのと同じ教育機関なのだ。

Massive contradictions 大いなる矛盾

 この9月に発表された国連の持続可能な開発目標(それは持続可能な発展のための援助に焦点がある)から、今月のパリでの気候変動サミット(それは、持続不可能生の根源に取り組もうとしている)に目を移そう。そうすれば、地球規模の慈善事業において根深い矛盾があることを認めねばならない。

 

 もし何の対策も講じられずほうっておかれれば、多くの財団や大学は、てきめんに労働者階級を貧しくするビジネスに参入し、特権を持つ少数の者達に与えんとするがために環境を損なうことになる。たとえ、そうした少数者が、開発援助とその土地の慈善事業の受益者であろうと、大学生であろうと。

 

 慈善事業に使われるマネーの大部分は、財団の助成金事業、ないしは大学の場合であれば教育支出によって約5%の収益を生んでいる。この5%は賢明なやり方で、貧困の削減努力や、教育機関の運営コストにつかわれているかもしれないが、どのように組織の富が効果的に利用されているのかを聞くことはあまりない。

 

 皮肉にも、もし伝統的なやり方で投資が行われれば、この資本は、財団が削減しようとしている貧困そのものを、あるいは、教育機関がその卒業生に取り組むことを期待している社会的問題・環境の問題を生み出すのに一役買うことになるかもしれない。

 

 そのようなものとして、企業の慈善活動に充てられる資本がいかに投資されるかは、じっさい、企業の保有する、社会問題、環境の問題に取り組むための最大の梃子であるかもしれない。しかしながら、悲しいかな、ほとんどの財団と大学は、最大収益以外には他のいかなる基準のためにも、これらの投資の審査に対し、極めて強い難色を示している。

 

 伝統的には、寄付金の用途とその寄付金からの収益の用途の間には、ファイアー・ウォールがあった。現在の学生主導の、化石燃料への負の投資を呼びかける運動、あるいは、私が大学生だった1980年代のアパルトヘイト時代の南アフリカにおいて事業を行っていた会社からの投資資金の引き下げに直面して、大学の理事会からさかんに聞かれた反応は、大学の寄付に対する収益を最大化することは法的義務であり、信託上の責任である、というものだった。

 

  財団には、大学と同じように、組織に組み込まれた学生投票人がいるわけではないが、財団の委員会は、自分たちの投資が公的な監査を受けた時にはしばしば同様の反応を示した。

Environmental concerns(環境への懸念)

  今や、財団の投資と投資戦略との間には、遮蔽がある。それは、多くの場合、同一組織内で、根深い哲学的矛盾を生み出す。そうした遮蔽は合衆国において瓦解しつつあるのかもしれない。アメリカ労働省の新たな決定は、寄付の受託者は、投資を行う際に社会的・環境的な要因を考慮してよいとしている。

 

 あらたな法決定によって、信託責任のある者は投資を行う際に、単に金銭的な収益を超えたもの(訳注:社会的・環境的な責任)を織り込むことが許されたわけだが、まだ多くの人が、施設・機関には環境的な、あるいは社会的な懸念を考える余裕などないだろうと信じている。これは、少なくとも2つの分野においては、近視眼的な考え方である。

 

 まず初めに、社会的に、そして環境的にも責任ある投資は、長期的には、これまでのような投資に勝るとも劣らぬ、もしくはより秀でているということを示唆する証拠が続々と現れていることだ。その理由は、もし労働者と環境を劣悪に扱えば、ある種の不確実性が生まれ、それがたいていの場合、企業の収益性に悪影響をもたらし始め、また、それを蝕むということである。

 

 2つ目は、ほとんどの場合において、施設・機関が寄付で得られた資本を投資する仕方は、世界において善行を成す巨大な(そして多くは見過ごされる)機会だからである。

 

 環境保護の大義を支持するという財団の使命のための、1年につき500万ドルを生み出す1億ドルの寄付金について考えていただきたい。その500万ドルで支援される諸計画は重要であるが、1億ドルの寄付金を社会的に責任のあるやり方で投資することたとえば風力発電への投資は、当該団体の真のインパクトをさらに20倍に拡大するであろう。

 

 この、インパクト投資として知られる慣行は、「金銭的な収益に加え、十分に大きな、そして利益のある社会的・環境的なインパクトを生み出す意図を持って企業、組織、基金へと成される」投資を指している。

 

Altruism?(利他主義?)

 

 正直に言って、私は一般に、社会的財(の普及)を促進するのに市場を通すことには懐疑的だ。

 

 この懐疑は、多くの市場が不公正に構造化されており、最貧困層の人々を除け者にしたり排除していると私が信じていることに由来する。政府、慈善団体、そして援助が、民間部門が投資をするのを喜ばないある種の公共財たとえば学校や道路、環境のアメニティ(その環境での住み心地が良くなるような特徴)を提供していくことが常に必要なのは、まさにこの理由に拠るのだ。

 

 しかし、この懐疑にもかかわらず、社会の周縁に汲々とし、主客の転倒(原文は「犬を振り回す尻尾」)富と貧困を生み出す資本市場を無視するとするならば、それは愚かなことであることは分かってもいる。

 

 環境の面で、正当で健全で公正なビジネス慣行を促進するのに政府の規制は常に必要であろう。他方で、私たちは、社会的にも環境的にも意識の高いあり方で運営される企業を支援することによって、長期的な視野をもった、組織化された投資家たちも必要としている。

 

 貧者の背の上に立った富と、地球の収奪に、真に終止符を打つのは、健全な政府規制と、倫理的な株主に感応する企業なのである。