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捕鯨についての考察

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 「国際的な批難にもかかわらず」日本の捕鯨船南極海に向けて出発したことをBBCが12月1日付けで大きく報道した。また、アル・ジャジーラ・イングリッシュも、11月から12月にかけて、この問題に大きな関心を寄せつつ報道した。この物議を醸す問題について、日本の多くの人は無関心であるように見える。もっとも、日本の人々のマジョリティは、捕鯨を擁護する立場である。ただ、それならば、今の国際的な潮流が「反捕鯨」であることはもちろん、「彼ら」の論拠がどのようなものであるのかは知っておいたほうがよい。

 

 私は、あるインターネット上のフォーラムに、「日本が行っている捕鯨は科学的目的によるものではない」と認めた上で、捕鯨、鯨食を擁護する書き込みをしたところ、文字通り世界中から激しいバッシングを受けた。もっとも、私に賛同する少数の書き込みもあったが。私は、そのひとつひとつに、返事を書いた。また、前述のフォーラムとは別の場でではあるが、私が個人的に親しくしている、反捕鯨派のカナダ人の友人からは、建設的であると同時に手厳しい批判を受けた。彼とは何度にもわたって意見の交換をした。捕鯨擁護派の私と反捕鯨派の彼との間で、何とかcommon ground(議論の一致点)を探ろうとした。

 

 私たちは素朴に、「牛や豚や鶏は食べていいのに、なぜ鯨は食べてはいけないのか」と疑問に思う。この質問は、「彼ら」に対して比較的強力な反駁となり得る。反捕鯨派の多くはこのように言う。「牛や豚や鶏は家畜化されている(domesticated)一方で、鯨は野生の(wild)、そして知能の高い(intelligent)動物だ」と。私は、私たちが消費する魚の大部分が「野生」であること、世界の多くの地域で狩猟文化が残存していること、また、家畜化されているか否かは、その動物を殺して食べるための正当性の論拠とはなり得ないことを指摘した。家畜化とは、野生動物をいちいち狩猟するより、ずっと効率的に、また大量に食肉を得るための、利己的な手段にすぎない。さらに、鶏はどうか知らないが、牛や豚は知能の高い動物だ。屠殺されるまで、飼育者に愛情を抱いているに違いない。私は、『いのちの食べ方』というドキュメンタリー・フィルムで、私たちが口にする肉が、いかにシステマティックに「生産」されていれているのかを観て、ほとんど唖然とした。その中では、今にも電気ショックを与えられて処理されようとしている牛が、屠殺場へと引っ張って連れて行かれるのに対して必死に抗っている様子が映し出されている。残酷な場面だ。また、私は魚には愛着をもったことはないが、毎日多くの魚が窒息死していることを思うと、やはり残酷だと思う。結局人間は、他の生命を奪うことなしに、すなわち残酷であることなしに生きていくことはできない。

 

 残酷さについては、家畜が比較的短時間で、苦しみの少ない方法で屠殺されるのに対して、鯨は長時間にわたって苦しみの多い形で死に至らしめられるという点が指摘される。私はそれが残酷であることを否定しない。ただ、魚(魚を食べない人はほとんどいない)の例や、世界の多くの場所での狩猟文化の例を挙げたように、これが反捕鯨の主たる論拠となることには強い違和感を覚えずにはいられない。結局、「食肉動物の知能」や「屠殺における残酷さ」というのは、「賢く慈悲深い」人間の、恣意的な基準に基づくものなのだ。

 

 蟻を踏み潰すのは残酷か?生まれて間もない子犬を踏み潰すのはどうか?―必要性がなければ、どちらもすべきでない。(ただ、私たちは、後者のほうをより残酷だと直感的に感じることに留意すべきだ。あるアメリカ人はいみじくも、「殺される対象となる動物の知能が高ければ高いほど、私たちはそれを殺すことを残酷だと感じる傾向がある」と指摘した。)私たちはおのれの生存にとって必要だからこそ、またその場合に限って、他の命を奪うのだ。この「必要性」からの反論は相当強力であった。「ほとんどの日本人は、めったに鯨肉を食べないではないか」というのだ。私は、当初、経済学で言うところの「代替財」のアイディアを援用して反論した。確かに日本人はめったに鯨肉を食べない。ただそれは、牛肉、豚肉、鶏肉、魚などを代わりに食べているからだ。あなた方も、鶏肉をもっと食べることによって、牛肉を食べるのをやめ、結果牛の命を救うことだってできるのだ、と。私のこの反駁が有効であるなら、反捕鯨派の主張は恣意的な欺瞞に過ぎないことになる。しかし、である。

 

 現在多くの鯨肉が冷凍庫に眠ったままであるのに、さらに今年捕鯨を行うのはなぜか。税金を使ってまで捕鯨を続けるのはなぜか。(ここでいう「税金」は、福島の復興支援に充てられるはずだった22.8億円も含まれる。「福島復興支援 捕鯨」でインターネットを検索すればいくらでもでてくることだが、たとえばこの東京新聞の記事を参照せよ。)

 

 私は、セシルという名のライオンが、アメリカ人歯科医の遊戯のために射殺され、物議を醸したことを思い起こさずにはいられなかった。当時、私はネット上にこう書いた。"Killing animals for pleasure is no less grotesque than killing humans for the same purpose." (愉しみのために動物を殺すことは、同じ目的で人間を殺すのと同様おぞましいことだ。)

 私たちは今は、一部の高級な鮨屋や、また別の少数の飲食店で鯨肉を食することができる。しかし、本当はもう、鯨肉への需要はほとんどないのかもしれない。その見極めは重要である。もし鯨肉がもう必要ないのなら、私たちは世界の潮流に合わせるべきなのかもしれない。「知能の高い鯨がかわいそうだ」というセンチメンタルな理由からではなく、「本当は需要がない肉は供給される必要がない」という理由でである。もっとも、私たちがこれまで以上に鯨肉を食べたいと思うなら(実は私もその一人だ)話は別だが。

 

 「伝統文化としての捕鯨」という側面についても、述べておかねばなるまい。この観点からの捕鯨の擁護は、決して反捕鯨派を説得できないという点でも無意味である。欧米諸国の多くがかつては捕鯨活動に携わっていたが、今やほとんどの国がそれをやめた。「彼ら」は、捕鯨という彼らの伝統を、おそらく今日本が批難されている理由によって止めたのだ。そして何より、捕鯨において私たちは、鯨の命を奪うのだ。それは、必要性に迫られ、やむなくなされることでなければならない。伝統への愛とは時に、単なる悪趣味でしかないのかもしれないのだ。イギリスは、反捕鯨国の急先鋒だが、彼らの伝統である「キツネ狩り」など「もってのほか」だと私は思うし、実際、多くの英国民が反対している。(日本でももっと物議を醸してもいいと思うのだが。)

 

 「日本の問題に口を挟むな」という偏狭な(けれども人口に膾炙した)意見もあるが、これもまたナンセンスだ。日本の捕鯨は、主に南極海の公海上で行われている。また、鯨の命を奪うことに対して、世界の多くの人々が倫理的な責任を感じるようになっている。「彼ら」は日本の捕鯨を、彼らの既得権益を護るために批難しているわけではない。今やこの問題は、より高次元の、公の倫理という俎上に載せられている。もはや、日本だけの問題ではありえないのだ。

 先述のカナダ人の友人は、「捕鯨には、国のプライドが大きく関係している」と指摘した。その通りだ。私たちの多くが、外国人から捕鯨を批難されたときに「ムキに」なりがちなのは、そして「我々の伝統文化に対して何を言うか」と言い募るのは、結局そのせいなのだ。

 

 捕鯨という問題は、反対派の多くが論拠に挙げる「捕鯨の残酷さ」「鯨の知能」から論じられるべきではない。他方、国のプライドから強行されるべきでもない。私たちは少し冷静になって、鯨肉の必要性、別言すれば、本来的な需要から考えられなければならないはずなのだ。