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全訳 The Spoils of Happiness

翻訳

 The New York Timesに掲載された、哲学者David Sosaによる"The Spoils of Happiness"と題された論説の全訳です。「幸せとは何か」という問題が、ある思考実験を手がかりに考察されます。記事がネットに公開された日付日時は、2010年10月6日午後7:30です。

 The NYTには、"The Stone"という現代哲学者やその他思想家のためのフォーラムが載っています。そこでは、時事問題と時代を問わない問題の両方が扱われます。アメリカの現代思想の潮流に興味がある方は、追ってみてはいかがでしょうか。 

 
 
    ハーバード大学の若き早熟の哲学者、ロバート・ノージックは1974年に、「ザ・マトリックス(経験機械)」を発案した。
君がしたいどんな経験をも君に与えてくれる「経験機械」があるとせよ。偉大な小説を執筆中だとか、友人を作っている最中だとか、興味深い本を読んでいる最中だっていうふうに、君が考え、そして感じるように、超絶すごい神経心理学の専門家たちが君の脳を刺激することができるんだ。君はずっとタンクの中に浮いていることになる。電極が脳に取り付けられてね。君は、自分が人生で経験することを事前にプログラムしてから、この機械に一生つながれているべきか?…(中略)…もちろんタンクの中にいる間、君は、自分がタンクの中にいることは分からない。だって、君は、すべてはほんとに起こっているって考えていることになるんだから。…(中略)…君は機械につながれるかい? (Anarchy, State, and Utopia, p. 3)
     ノージックの思考実験(ついでに言うと、あの映画)は、面白い仮説を指摘している。すなわち、「幸せとは、心的状態ではない。」  
 
     「幸せとは何か」というのは、哲学者が問う奇妙な問いのひとつで、答えるのは難しい。学問としての哲学においては、まだこの問いへの統一見解はない。哲学者というのは、生まれつき、それからトレーニングのせいで、議論を好み、なかなか首を縦に振らない奴らである。でも、この問いが難しいのは、幸せとはどんな種類のものかをめぐる、問題含みの偏見のせいなのだ。僕は、誤りを診断し、より正確で公平な処方箋を講じよう。
 
Happiness isn’t just up to you. It also requires the cooperation of the world beyond you.
(幸せっていうのは、ただ君次第ってわけじゃない。君を超えた世界の協力だって必要なんだ。)
 ノージックの思考実験によって、僕たちは、ひとつのありうる状況に関して、決断することを求められる。事態がそんな具合なら、君はどうするか?機械につながれるか?中には、この例には取り合わない人もいる。仮定の状況についての決断などという、そもそもの考え方がどうもインチキくさい。何も示せない。「こんなの全部、ただの仮説じゃないか!どうでもいいことじゃないか。目を覚ませってば。」
 
 設定が仮定のものであるからといって、その設定が考えるのが難しかったり、無価値だということはない。君の建物で火事があったとしよう。君は、隣人たち(彼らは、救出されなければ脱出できなくなってしまう)を外まで引きずり出して救出するか、あるいは、逃げるときに自分の鉛筆を握りしめてそれを「救出」することができる。両方というのはダメだ。君ならどうする?答えは簡単だと思う。そして、それがポイントなのだ。僕たちは、少なくとも時には、こうした問いにたやすく答えられる。君は仮定を与えられて、こちらをするか、あちらをするかと尋ねられる。仮定の状況について思考し、答えを与える。ノージックの例はそういうものだ。
 
 それで、君は機械につながれるかい?
 
 けだし、僕たちの大部分にとって、答えは「ノー」だろう。「ザ・マトリックス」のヒーローたちは、モーフィアス、ネオ、そして味方の愉快な反乱軍。「エージェント」と取引するサイファーは悪者だ。もしものときに僕たちが何を引っつかむか考えてみることが、実際僕たちが何に価値を置いているのかを知る助けになりえるように、「経験機械」につながれるかどうか考えることは、僕たちが切望している類の幸せについて知る助けになるのだ。
 
 ノージックの機械につながれることを拒否する中で、僕たちは、自己に深く根づいた信念を吐露する。「機械から得られる類のものは、僕たちが得られる一番価値あるものじゃない。僕たちが心の一番底の底から欲しているものじゃない。このことは、僕たちが機械につながれ、何をどう考えようと、変わらない」。機械につながれて生きることは、幸せな生活を追求する際に僕たちが求めることの成就だとは考えられていない。友人がいることと、友人がいるという「経験をすること」の間には重大な違いがある。偉大な小説を書くことと、偉大な小説を書くという「経験をすること」の間には重大な違いがある。機械につながれていたら、僕たちは、子供の親になることも、パートナーと愛を交わすことも、友人と声を出して笑うことも(知らない人に微笑むことさえも)、踊ることも、ダンクシュートを決めることも、マラソンを走ることも、禁煙することも、夏までに10ポンド痩せることもないのだ。機械につながれていても、僕たちは、そうしたことを実際に成し遂げる人がするような経験をする。でも、そんなのはみんなある意味「にせ」、しょせんは頭の働きだけ、蜃気楼のごとき夢だ。
 
A drug addict is often experiencing intense pleasure. But his is not a life we admire.
薬物中毒者は頻繁に激しい快楽を経験する。でも彼の人生は、僕たちが称える人生じゃない。)
 
 さて、言うまでもないことだが、君が機械につながれていたら、君の側では、機械につながれているかいないかの違いは失われてしまう。自分が実は誰の友達でもないのだってことは君には分からない。でも、ここで異彩を放っているのは、この事実でさえ十分な安心材料ではないということだ。むしろこの事実によって、先行きへの恐怖は膨らむ。僕たちは無知でもあるし、おまけに騙されてるときてる!孤独の痛みに苛まれることがない、それはいいことだ。でも、僕たちがそんなふうに蒙昧でなければ、友情の経験が本物であればマシなのに。
 
 要するに、君の子供が初めてサッカーをするのを観るのがすばらしいことなのは、それが実に心楽しい経験を生むからではない。むしろ、通常その経験をそんなに特別なものにするのは、それが「君の子供が」「初めて」「サッカーをしている」のを観る経験だということなんだ。きっといい気持ち――シビれるくらいに素敵な気持ちだ。でも、大切なのは、「現実への反応として」その気持ちがそこにあること。気持ちそれ自体が、人生を幸せなものにしてくれるというのは誤っている。
 
 幸せというのは、信仰よりも知識に近い。信じてはいるが知らないことはたくさんある。知識っていうのは、ただ君次第ってわけじゃない。君を超えた世界の協力だって必要なんだ。つまり、君は間違っているかもしれないということだ。それでもたとえ間違っていても、君は自分の信じていることは信じている。その点、快楽は信仰に似ている。でも、幸せっていうのは、ただ君次第ってわけじゃない。君を超えた世界の協力だって必要なんだ。幸せは知識と同じように、そして信仰や快楽と違って、心の状態「ではない」。
 
 幸せをこんなふうに見ると、挑発的な帰結がひとつ導かれる。もし幸せが心の状態ではないなら、もし幸せが、君の気持ちと、周りの世界の出来事・物事の織りなすタンゴのようなものだとしたら、君が幸せかどうかについて「間違う」可能性が現れる。君が、自分は快楽を経験しているのだと思っているなら、いや、痛みの場合が特にそうかもしれない、君が、自分は痛みを経験していると信じているなら、おそらく、君は痛みを経験しているんだろう。でも、ここでの幸せについての見方は、「君は幸せだと思っているかもしれないが、実際はそうじゃない」という事態を認めるんだ。
 
 幸せについての考え方でとりわけ格好のもののひとつ(アリストテレスの思想に既に見られる考え方)に、「充実」の観点からのものがある。新しい仕事ですごく充実している人、あるいは大学を卒業してすごく充実している人を考えて欲しい。充実という語の意味は、単にその人がいい「気持ち」だということではなく、たとえば物事をいくつか成し遂げつつあって、その達成に見合った快楽を得ているということだ。もしその人が家で一日中、座ってヴィデオ・ゲームをしているだけだとしたなら、たとえ大きな快楽を得ていても、たとえ欲求不満でないとしても、僕たちはその人が充実しているとは言わない。そういう人生は、長い目で見たら、幸せだとは見なされない。幸せな人生を歩んでるっていうのは即ち、充実しているってことだ。
 
 これと著しい対照を成すのが、薬物中毒者の人生だ。薬物中毒者は頻繁に激しい快楽を経験する。でも彼の人生は、僕たちが称える人生じゃない。多くの場合、それは相当惨めな生き方だ。いや、人はこう考えるかもしれない。薬物をする人だからこその苦しみもある、離脱症状とかがあるし…ひょっとしたら彼は、クスリをやめられなくていらだっているかもしれない、とね。でも、そうした心配が当たらないとしよう。当人がちっとも苦しんだことがないとしよう。他の生き方には少しも興味をもっていないとしよう。それなら、どれくらいマシになるだろう。
 
 
 
 マシになるかもしれない。でもそれは「幸せな」人生ではない。他の人生に比べてマシということはあるかもしれない。例えば、終わりのない鈍痛が続く人生と比べたら。痛みに比べたら、シンプルな快楽の方がいいに決まってる。でも、薬物中毒者の人生が幸せなものじゃないのは、彼が落ちぶれたときに感じる絶望のせいじゃない。彼が快楽を感じているときでさえ、それは彼についてさしたる意味をもつ事実じゃない。それは単なる気分であり、動物が経験しているのを僕たちが思い描ける種類の快楽だ。幸せは、手にするのがもっと難しいものだ。それは、君が何かのために働いた後で、あるいは愛する人たちのいるところで、あるいは息を呑むような芸術作品やパフォーマンスに出会ったときに味わうものだ。僕たちが幸せであるためには、ある種の現実的活動をして、現実の事物に直面して、それらに反応することが必要だ。それからもう一点。非常にきつい状況にあっても、曇らぬ目でそれに関わることへの誇り。この矜持に時に伴う、ささやかな幸せを、僕たちは無視するべきではない。
 
 
 
 人生で一番大切な物事が自分でどうにもできなくなるのは忌々しい。幸せが外的な影響に左右されると見なすことは、僕たちの役割を制限する。幸せに生きられるかどうかが、物事がどう推移するかに左右される可能性があるという意味においてだけではない。幸せとは一体何かという問題が、部分的には、自分を超えた物事がどうであるかという問題になってしまうという意味においてもだ。僕たちは、幸せに生きるためにできることはすべてするかもしれない。幸せであるために僕たちの側で必要なすべてを、あらゆる正しい思想と気持ちを持っているかもしれない。そして、それでもなお、足りないかもしれない。僕たちにさえ分からないまま。これは身震いするような考え方だ。でも、僕たちは勇気をもたないといけない。知的な勇気だって、幸せに負けないくらいに大切なのだ。