鎮魂

僕は詩を書くからなのかな、
 
皆の思いつくような考えは唾棄してきたやったわけだ。
 
親の墓参りには難色を示し、
 
式典での黙禱中に
 
薄目を開けて前の禿げ頭を見る。
 
僕は素朴な人間なのに
 
人が死んだら涙を流しておいおい嗚咽する人間なのに
 
どうして、鎮魂の旗振りをする人を怒らせるような素行をとるかというと
 
鎮魂の旗振りというのが嫌だからだなんだ。 
 
死はひとりのものでしょう。死は寂しいものでしょう。
 
きわめて個人的なものでしょう、死というのは。
 
たゆたう炎や、よくわからない宗教が
 
ほんとうに魂を鎮めるのですか。
 
そういう僕だって
 
魂の鎮め方なんて知らないし
 
そもそも、魂を鎮めずにほうっておいたら、いけないものなのかどうかも知らない。
 
一つ言えることは、
 
生きている人間は、あまりに寂しくて、孤独で、やるせなくて、
 
死者に心よせずにはいられないということだ。
 
魂を鎮めずとも
 
死者は意外と平安であるかもしれない。
 
一人で生きている者は
 
死者の夢ばかりを見ているかも…。
 
要するに僕は、死者の運命に楽観している節がある。
 
炎を燈し、死者と生者が出会うところは、
 
そうだな、生者に魂を鎮められる度量があるのかどうかは置いておいて、
 
静謐で、驕りがなければ(TVキャメラなど、論外だ)
 
僕はかまわないのだ。