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猿の章

創作

 7年前に書いた『蛙』という掌編(http://nakanotaku.hatenablog.com/entry/20120917/1347815563)を下敷きに、「猿」というお題で書いてみました。原稿用紙1枚半ほどの掌編です。

 

 雨に濡れた猿が、ゆっくり呼吸をしている。しずくが鼻先から唇に落ちる。
 井戸に向かう蛙が、猿を見上げる。
 猿は蛙を見下ろす。井戸の中の、何百もの蛙の骸骨のことを思う。
 名は何ですか、と蛙は問う。
 ミチイだ、と猿は答える。ヒトが勝手につけたんだが、おれは嫌いだ。お前は何という名だと猿は訊く。
 僕はたくさんの卵から生まれたから、名前なんてないんだ。あなたのように、母に愛され、父に罵倒され、ヒトに馴致されて育ったわけではない。気がついたらひとりぼっちで水に流されるちいさなおたまじゃくしだった。たまたま魚に食べられずにすんだけどね。雨に濡れながら、気持ち良さそうに蛙は答える。

 おれはどうせ死ぬ。猿は甘美な孤独の中にいた。いや、蛙がいるから孤独ではないな。

 おれはじきに死ぬと思う。ヒトに手なづけられて、ことばの奴隷になった。心がヒトのことばに縛られているようだ。お前は死ぬのが怖くないのか。死ぬのが怖いというのは、まあ、ことばに隷従しているからだろうが。

 怖い、と蛙は言った。僕の肉体が、僕の、愛や絆についての記憶が全部消えるんだ。無、と呼べるような何かも残らない完全な無だ。怖い。怖くないはずがありません。

 雨が毛並を洗った。猿は夢を見ていた。雨の中で夢を見ていた。ひとりぼっちだった。涙が出てきたが、雨が顔を濡らすので、泣き顔だけが残った。