Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

汽笛

  日の高い、四月の終わりの昼間、大きな本屋で女の手頸の傷を映した写真集を見た。写真には二十代半ばと思しき痩せた裸の女の左半身が映っていて、手頸の上部に抉ったばかりのような紅色の深い裂目があった。私はすうっと女の手頸から腕へと、肩へと、小さな乳房へと目を移した。写真の下には陰毛が翳っていた。そうしてまた、傷を見た。この女はもう死んでいるかもしれないと思った。それから、この写真家はまだ生きているに違いないと思った。

 

 

  私はもう若い頃ほどには死を憧憬することはなくなったと思っていた。だから写真集を置き、離れたところで別の本を繰っていても女の手頸の傷ばかりが脳裏に浮かぶのを意外に思った。紅い傷口は、もう死んだかもしれない女の手の届かぬ所で雄弁だった。語り得ぬ人は、口を開くのに己の手頸を刃物で傷つけねばならないのだろうか。色彩を失った生を彩るのには、自らの手頸にナイフを突き立て、紅い血を流さねば?

 

 

  女は、中丸刀と呼ばれる、木に太い線を彫刻する刀で自らの左腕を抉ったのだった。遠くの汽笛のような痛みがあった。肉が削げ、血が夥しく流れた。女には、本当に汽笛が鳴っているような気がした。静かな昼間に海から届く、長閑な音だ。女がいつも「ぐじゃぐじゃ」と形容していた混乱は後退し、一時の平安が訪った。が、すぐに女は「血を止めなければ」と思った。それで座っていたマットレスから身を起こし、大股でキッチンまで行って、蛇口をひねった。水ってこんなに色がないものだっけ。痛みがゆっくりと歩み寄ってきた。

 それから一時間ほどどう過ごしたのか、女には思い出せない。気がついたら夜の闇は薄らぎ、小鳥が鳴いていた。灰皿には煙草の吸殻がふたつあった。シンクの血は水と混じり、鮮やかな紅を保っていた。痛い。「助けて」と女は静かに言った。けれども、自分の声はいかにも嘘くさく、女は自嘲気味に唇だけで笑んだ。その笑みすらも下手な演技のようで、そう思うと女は途方に暮れた。血が溢れないように静かにマットレスに戻り、血のついた右手で電話を取った。

  「もしもし」と女は言った。

  「もしもし」と酔った男の声。朝の四時半を過ぎていた。少しの間の後、女は「切っちゃった。手頸。かなり深く」と言った。

  「そうか」と男は神妙そうに言った。神妙なふりをしている、と女は思った。

  「どこ?」

  「三宮で酒を飲んでる」

  「行く」

  「そう。おいで」

  肌寒い夜で、女はパーカーを羽織ろうとした。けれども、手頸が血だらけだったし、今でははっきりとした形のある痛みがあった。「無理だ」と思った。「行くのは、無理だ」しばし呆然としていた女はしかし、ふいに右手だけでTシャツを脱いで、下に履いていたものも脱いだ。床に少し血が落ちた。蛍光灯をつけると周りは白くなった。全身鏡に身体を晒し、鏡を通して裂目を見た。女は少しだけ満足し、電話に付属するカメラを鏡に向けた。揺れる画面の中の鏡に女は、血の溜まった裂目を見た。中央が紅色で、周りにいくほど黒っぽい。右手が震えるのを抑えながら、裂目を一枚撮った。続けて、顔が鏡に映らないようにしながら、左半身を撮った。すぐに写真を見たが、自分の周りが白く明るいのも、散らかった部屋が写っているのも気に入らなかった。それで、蛍光灯を消し、カメラのフラッシュを焚き、右手の震えを抑えながらカメラを鏡に向け、裂目と、左半身を何枚か撮った。最後にカメラを直接傷に向け、もう一枚撮った。もういい。そうして、鏡の下にティッシュペーパーがあるのを見て、電話を置き、傷の周りを叩いた。

 

  電話が鳴った。女は出なかった。今自分が電話をかけた相手なのに、女は男を軽蔑し、ほとんど憎らしく思った。

 

  夜は映写機のようにぐるぐると回転し、小鳥はいよいよ激しく囀り、曇天の朝が現れた。女は今や、写真を誰かに見せたいという激しい欲求に駆られていた。けれども同時に、そうしない方がよいだろうという思いもあった。実験をしなければ。試しにあの酔った男に写真を送信したらどうなるだろう。あの男なら、私の人生から消えても一向に構わないから。

 

  男は足元が覚束ないほどに酔っていた。夜はすっかり明け、白んだ空の下には灰色の建物が林立していた。カラスがかあ、かあと鳴いて青いゴミ袋を破いていた。鬱屈した、人恋しい気がした。電話が合図した。さっき電話を寄こしてきた女からだ。確認すると、写真が二枚届いていた。文面はなかった。傷を見た男はどきりとしたが、すぐに自分が少しも同情していないのに気づいた。男は強く目を閉じ、二秒数えてまた目を開けた。空のほとんどを占める白い雲の裏側に黄色い太陽があるのが分かった。酔いはいよいよ回っていた。下心を隠そうと努めつつ、男は返事を書いた。「大丈夫?痛々しいよ」

  女からの返事はなかった。

 

  夕方から雨が降り、女の傷口は疼くように痛み、男は宿酔で動けなかった。女は病院で傷を縫ってもらった。男はベッドの中で裸の女の写真を見つめていた。左腕に裂目があった。いつまでも塞がりも褪色もしない、画面の中の裂目に、男はだんだんと魅了された。夜は更け、また明けた。そうしてまた日は沈んだ。

 

 

  こうやって、ある一日は別の一日に取って変わられるのだと私は思う。その別の一日は、また別の一日に取って代わられる。彫刻刀で印をつけておかないと自分がどこにいるのか分からなくなる人がいる。血が流れる。静寂の中を痛みだけが追いかけてくる。けれども本当は私には、そんなことは何も分からないのだと思う。いつしか夜は明け、遠くで汽笛の音が聞こえる。私はびっくりする。

 

 

  男は宿酔から醒めてなお何日も、電話の画面で女の傷口の写真を倦むことなく見つめていたが、やがて写真集を編むことを思いついた。傷ついた手頸を撮った写真を何十枚か集めた。集めた写真を加工し、批評を添えた。まとまった冊数が売れ、版を重ねもしたが、男はますます憂鬱になった。ある日酩酊するほど酒を飲んだ後に向精神薬を大量に服薬し、自死してしまった。

 

 

  そこまで考えて私は写真集を閉じ、本屋を出た。往来には無数の男女が行き来していた。人混みの一部分になると私は、じきに写真集のことは忘れてしまった。喧騒は高らかな空に吸い込まれていった。初夏が訪れようとしていた。