二十年前、父は末期の癌だった。
遠い山並に小さく満開の桜を見やり、
「今年の桜が最後か」と言った。
その年の六月、父は逝った。
爾来、わたしは桜を見るたび、
鼻の奥がつんとするような哀しみを憶えてきた。
しかし
わたしが三十を過ぎた頃からだろうか、
桜は、わたしに特別な感興を催すことがなくなってきた。
気がついたらわたしは、
見頃の桜を見損ない、
擦り減った靴で、濡れた花びらをくしゃくしゃと踏んで、
乾いた初夏を迎えた。
そうしてすぐに、
息が詰まるほどの真夏の熱気に包まれた。
桜よ。わたしは今年もまた、まだあなたを見ていない。
あなたは本当に生き急ぐから。
あなたは本当に生き急ぐから。
わたしはことしで三十五になる。
父が逝ったのは二十年前の初夏だった。
桜は、すべて散ってしまっていた。
「今年の桜が最後か」と父は言った。