Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

The Only Way to Fight Hate (TIME誌の記事より翻訳)

以下は、Nancy Gibbs氏による"The Only Way to Fight Hate"(「憎しみと闘う唯一の道」)と題された文章の翻訳です。2018年11月1日のTIMEの記事です。(November 12号に所収)以下のリンクでも原文が読めます。

http://time.com/5441420/gibbs-beyond-hate/

 

 憎しみは、私たちのあらゆる根源的本能のうちで、もっとも截然と人間的である。動物にあっては、暴力と恨みは、生存の道具である。人間にあっては、覇権の道具である。まるで、憎しみが人を大きく、安全に、強くするようである。ここ最近の襲撃者の一団の、インターネットへの歪んだ投稿が示唆しているのは、彼らが義務として、憎しみの態勢を取らねばならないと感じたことである。ロバート・バワーズ容疑者(注:10月27日に米ペンシルベニア州シナゴーグユダヤ人礼拝所)で銃を乱射。11人が死亡、6人が負傷)は申立によると、ユダヤ人が難民にまで手を差し延べていることを批難していた。シナゴーグに向け出発したとき彼は、中央アメリカを通って北進する「侵略者」を撃退することを誓っていた。「手をこまねいて、我らが種族が殺されているのを見ていられない」彼の名と一致するメール・アカウントには、こう投稿したのがあった。殺戮の場に派遣された殉教者でもあるかのようだ。また、爆発物を郵送した疑いがかけられているシーザー・サヨック容疑者(注:前大統領ら著名な公人や民主党議員に爆発物を送付した容疑がかけられている)は、ジョージ・ソロスに付きまとっていた。ホローコーストの生き残りの十億長者で、民主党の慈善家でもあるが、陰謀論者曰く、あの侵略に指揮援助をしているというのである。―その武装侵略者はほとんど千マイルも彼方にいるし、彼らの(arms: 武器、腕)の中にある主たるものは、彼らの子供たちなのだということには思いが至らない。「白人は白人を殺さない」と、目撃者はグレゴリー・ブッシュが言い及んだことを引用した。彼は、ケンタッキーの食料雑貨店で黒人の買い物客2名を殺害した容疑で逮捕された。申立によると、事件前、近隣の、黒人が大半を占める教会に侵入できなかったという。

 

 私たちは、「憎しみ」という授業の最難関コースを受講している最中と言ってよい。私たちには他に選択肢がないからである。憎しみは、私たちが最大限の努力を払って抑圧している人格の部分から、真っ先に直視せざるを得ない部分にまで動いてしまった。憎しみはその縛りを抜け、今や私たちの政治、諸綱領、報道、個人の衝突といった場面を駆け巡っている。そして憎しみは、遠くまで行けば行くほど力を増す。これまで誰かを批難するのに不慣れであった人々は、眼前の分断を越えて広がる光景に大いに戦慄し狼狽した結果、手に手を携えてそれと闘う覚悟でいる。礼儀正しくあるように求めても、それは弱さの露呈だ、いわば、一国だけの武装解除だと軽蔑される。トランプ大統領は、団結を呼びかける。けれども彼は同じ口で団結を妨げている。対立者を悪者に仕立て上げ、現実の脅威を見くびり、トラウマを軽んじる。彼は、殺戮された方々を悼んで政治集会を取りやめることなど考えなかった。いや、彼は取りやめを検討したと言った、ただしそれは彼の「髪型が決まらない日」(注:何をやってもうまくいかない日の暗喩)だったからだ。

 

 大統領の嘘にはあまりに多くの関心が寄せられているから、私たちはともすれば彼の粗暴な正直さを見逃してしまう。暗殺の企ての直後、彼は歴代大統領に電話連絡をする必要性を認識しなかった。「控えさせてもらいたいね」と彼は言った。「郵便爆弾騒動は遺憾だ。共和党中間選挙の勢いを削ぐからだ」とも主張した。シナゴーグでの銃撃の犠牲者を弔慰するツイートの後には、ワールド・シリーズに関するコメントが続いた。彼は、そうした銃撃への解決策は死刑制度を再開することだと示唆した。暴力に対抗するのに、それを超えた暴力で対抗するに勝る手段があろうか、というわけだ。そして、もし国土で暗く危険な力が台頭しているとすれば―彼はそう信じているのであるが―「『フェイク・ニュース・メディア』つまり『人民の真の敵』は、あけっぴろげに、はっきり敵意を剥き出しにするのを止めて、ニュースを正確かつ公平に伝えろ」ということになる。

 

 同様に、彼が共感を全く欠いているという証はまた、彼には天賦の才もなければ政治的な強みもない証でもある。彼が持てるのは、私たちのもっとも暗い本能を嗅ぎつけ、それらに訴えかけ、潜んでいるところから引き出してくる能力である。もっとも私たちにとっては、そんなものを目にしないに越したことはないのであるが。彼が侵害しているあらゆる規範の中でもっとも剣呑なもののひとつは、「アメリカ人は常に、私たちを引きずり下ろすのではなく高め、そして私たちを引き離すのではなく団結させる指導者を求める」—これである。「アメリカを再び偉大に(Make America Great Again)」は、怒りに満ち、憤懣やる方ない人々にとっては目覚ましく大望に満ちたスローガンであってきただろう。しかし、偉大さへの道程では、難破した船のように、損なわれた諸制度、価値観、国家の名誉の残骸が煙を上げていることが今や明らかになった。失われしは、死に至る戦いではない政治的な闘いから得られる喜びだ。政治が血なまぐさいスポーツになれば、ほんとうに人は死んでしまうのだ。

 

 さて、それでは問題は以下のようになる。私たちの通常の反応が機能していない。陰謀論の「真実」としての広がりは少なくとも、真実は重要であることを前提とする。同時に、そうした陰謀論は真実を侵蝕する。友人を繋ぐことを意図していたソーシャル・ネットワークは、敵を作るために巧みに設計されていることが判明した。ファクト・チェッキング(事実の確認作業)は大した問題ではない。多数が真実に勝る(tribes trump truth)からだ。記者が大統領が憎しみを煽っていることについての説明責任があると見なそうとすれば、大統領は記者を、偏向報道だ、分断の火に油を注いでいると攻撃する。左派が相手と同じ出方に出れば、私たちの対話を損なう戦略の片棒を担いでしまう。

 

 十字砲火にさらされているのは、怒りに震えたというよりは疲弊してしまった市民である。醜悪で、知的に不毛な、今では、私たちの公共空間として通っている巣窟をどう説明したらいいのか、あるいはそこからどう逃げ出したらいいのか、途方に暮れているのである。陰謀論は、じっさいの知の真面目な営為の代わりにもてはやされている。陰謀論を抱けば、手軽に優越感に浸ることができる。「普通の人は夜のニュースで耳にしたことや新聞で読んだことを信じている。けれども、君はもっと頭がいいんだ、もっと物を知っているんだ。こうした出来事の裏には規則と筋書きがあるのが見て取れるだろう。『グローバリスト』が糸を引いているんだ。『闇の国家』に君の任務が邪魔されているんだ。君だったら騙されない、君は操り人形じゃない、君のほうが物を知っている。君は真実を知っているんだ」。

 

 さて、それではどうすればいいのだろうか。このことによる損失についてもっとも雄弁に語る政治家諸氏は主に、現場を去りゆく人たちである。責任の果たされない時代、あらゆる「エリート」—教師、牧師、科学者、学者を問わない―が疑わしい時代にあって、私たちはどこで道徳的な指導者を見出すことができるだろうか。

 

 もし私たちの過去が導きであり慰みであるなら、その由来はこれまでと変わらない。左を見、右を見よ。上や下を見るのではない。リーダーシップは、『生命の樹』(注:銃撃されたシナゴーグの名)の精神とともにある。そこでの犠牲者には、無償で歯の治療をする歯科医がいた。「彼らにはほんの少しも憎しみを抱いていな」かったと葬儀でラビ(注:シナゴーグの主管者)が語った兄弟がいた。60年以上前にこのシナゴーグで結婚したご夫婦がいた。夜を明かして祈り、黙して連帯しようと訪った何千もの人が彼らすべての死を悼んだ。さらに、リーダーシップは、さらに多くの郵便爆弾が現れたときも職務に引き続きあたった郵便局員とともにある。そして、ケンタッキー州の食料雑貨店で銃撃があったときには、人種と暴力についてコミュニティーで話し合った住民の方々とも、ともにあるのだ。

 

 愛の対極が憎しみでなく無関心であるとするなら、憎しみを解くのは「取り組み」である。投票の日に人々が投票に行くよう、週末人々の玄関の扉をノックしたり、また、電話作戦部で任務にあたった人々はその発露である。情報の奔流から有害な情報を取り除く方途を探る技術者の事業もその発露である。地球上でもっとも富める国々の中のひとつにあって、どういった形の、思いやりに満ち持続可能な文化を自分たちが期待しているかを上司に直談判している従業員もその発露である。服、乳癌の研究費、植樹に充てるためのお金を集めている教会連合や市民クラブや行進隊もその発露である。放課後も個人指導をするために学校に残ったり、あるいは選手たちに、試合相手と敵との違いを指導するコーチもその発露である。―そうしたコーチは、選手たちが将来この知恵を携えた上で、今ではスポーツというよりも戦争のようになってしまった公共空間に参入できることを期待しているのだ。リーダーシップとは、思いやりを形作り、疎外と闘い、オフラインの世界で、街や教室や聖域にまで繰り出し、困っている人に手を差し伸べる、そうした無数の個人の決断から生まれくるであろう。

 

 ここまで書いたらもう明白である。火曜日何が起ころうとも、誰も私たちを救いには来ない。私たち自身で何とかするしかないのだ。