Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

『盗み』 キャサリン・アン・ポーター (1928) 翻訳

 

Fifty Great Short Stories (Bantam Classics)

Fifty Great Short Stories (Bantam Classics)

  • 作者:Crane, Milton
  • 発売日: 1983/08/01
  • メディア: マスマーケット
 

 

Theft (盗み)

Katherine Anne Porter

 

 入って来たとき、彼女はハンドバッグを手に持っていた。床の真ん中に立って、身体に巻いたバスローブを握りしめ、もう片方の手で濡れたタオルを引きずって、ほんの少し前の記憶を辿った。すべてをはっきりと覚えていた。そう、彼女はハンドバッグをハンカチで乾かした後で、それを開けてベンチの上に広げて置いていたのだ。

 高架鉄道で帰るつもりだった。当然のこととして、彼女はハンドバッグの中身を見て、ちゃんと運賃があることを確認した。小銭入れには40セントあって、彼女は安心した。自分の運賃は自分で払うつもりだった。たとえ、カミロがいつも階段の上まで彼女に付き添い、5セントを機械に入れ、回転式の改札機をそっと押してやって、お辞儀をしながら見送ることになっていたとしてもだ。カミロは妥協に妥協を重ね、大仰で厄介な気遣いは無視することで、今ではほぼ完全な、一連のささやかな気遣いをうまくできるようになっていた。土砂降りの中、彼女は彼と一緒に駅まで歩いた。というのも彼女は、彼が自分とほとんど同じくらいお金がないのを知っていたからだ。彼がタクシーで行こうと言い張っても、彼女は頑なだった。「ねえ、そんなの意味ないから」彼はビスケットみたいな色をした、新しい帽子をかぶっていた。というのは、実用的な色合いのを買おうなんて、彼には思いもよらなかったからだ。その帽子をかぶったのは初めてだというのに、今では雨がそれを台無しにしつつあった。彼女は考え続けた。「でも、これはあんまりにもひどい。どこで新しいのを買うんだろう」そうして彼女は、カミロの帽子をエディの帽子と比べてみた。エディのはどれもぴったり七年ものという気がしたし、雨の中にわざと晒されたもののような気がした。それでもエディが帽子をかぶると、気負わない、偶然の「ふさわしさ」のようなのが生まれていかにもさまになった。でもカミロはぜんぜん違う。みすぼらしい帽子をかぶったら、それはただみすぼらしいだけだった。そして彼自身は覇気を失ってしまった。もしカミロが悪く取るのではと恐れていなければ――というのは、彼は自分が二人のために決めたところまで、自分のささやかな儀式を敢行するのにこだわっていたから――二人がソーラの家を出るときに彼にこう言っていただろう。「お願いだからお家に帰って。ぜったい、ひとりで駅まで行けるから」

 「今夜は雨に降られるって新聞に書いてた」とカミロは言った。「だから、二人で雨をやり過ごそう」

 プラットフォームへの階段道の一番下のところで、彼女は少しよろめいて――二人ともソーラの家でカクテルを飲んで、結構酔っていたのだ――言った。「カミロ、これだけはきいて。今いる場所から上がって来ないで。どうせすぐ下りることになるし、きっと首の骨を折るよ」

 彼は素速く三度お辞儀をした。彼はスペイン人で、雨の降りしきる闇の中に跳び去って行った。彼女は彼を見て立ち尽くしていた。というのは彼はきわめて優美な若者であったからだ。彼は明日の朝には酔いが醒め、台無しになった帽子とぐちょぐちょの靴を見つめるだろう。ひょっとしたら彼女のことを自分の惨めさと結びつけて考えるかもしれない。彼女がじっと見ていると、彼は遠くの角で歩みを止め、帽子を取ってコートの下に隠した。見てしまったことで、彼女は彼を裏切ったような気がした。もし彼が帽子を守ろうとしていたんでしょうとまで疑われていると思ったら、辱(はずかし)めを受けたように感じただろうからだ。

 階段道の屋根を雨が叩いているところに、ロジャーの声が彼女の肩越しに響いた。こんな夜更けに、しかもこんな雨降りに、一体何をしているのか。それから、誰かを送って来たのか、とも。彼の、長くて落ち着き払った顔には雨水が滴っていた。上までボタンを留めた彼のコートの胸元には膨らみがあって、彼は指先でそれをトントンと叩いた。「帽子だよ」と彼は言った。「さあ、タクシーに乗ろう」

 ロジャーの腕は彼女の両肩を包み、彼女はそこに身をあずけた。ふたりはそうやって視線を交わした。長らくフレンドリーな付き合いをしてきたようだった。それから彼女は、雨があらゆる物事の形を、そして色をも変えてゆくのを窓越しに見た。タクシーは高架鉄道の支柱のために、きびきびと向きを変えつつ進んで行った。カーブに出くわすたびに、少し車体が滑った。それで彼女は言った。「車が滑ったら、その分気持ちが落ち着く。ってことは、間違いなく酔ってるな」

 「間違いない」とロジャーは言った。「まったくヤバい女だなあ。カクテルを飲んだら今すぐお付き合いできるんだけど」

 タクシーは40丁目6番街で信号待ちをした。若い男が三人、タクシーの前を闊歩した。電球の下、彼らは楽しげで、碌でもない身なりをしていた。皆痩せぎすで、ガラの悪い、大慌てで裁断されたようなスーツを着て、派手なネクタイをつけていた。彼らもまた素面(しらふ)ではなく、しばし車の前でぶらぶらとしていた。すると三人の間で言い合いがあった。互いに対して身を乗り出して、歌い出そうとしているみたいだった。一人目が切り出した。「俺が結婚するときはなぁ、結婚のためにするんじゃないぞぉ。俺は、愛のために結婚するんだぁ」すると二人目が「おお、いいぞ!あの娘(こ)に言ってやれ、なぁ」と囃し立てた。すると三人目が興を惹かれて「バカ!こいつとかぁ?金持ってないじゃないかぁ」と言った。一人目は「はぁ?黙れよぉ、このバカ。金なら、ある」とやり返した。そうして、彼らは皆で騒ぎながらそそくさと通りを渡った。はじめの二人が三人目の背中を叩き、あちらこちらへ押し出していた。

 「バカだ」とロジャーが評した。「純粋な、バカだ」

 女の子が二人、軽やかに行き過ぎた。片方が緑色で透明の、もう片方が赤で透明のレインコートを着ていた。降りしきる雨の中、二人は首を縮込めていた。片方が、もう片方にこう言っていた。「ええ、そのことは全部知ってる。でも、私はどうなるの?あなたはいつも彼のことばかりかわいそうだって思ってるけど……」そして二人は駆けて行った。ペリカンみたいに短い脚が光を浴びてチカチカしていた。

 タクシーが突然バックし、また飛び出した。しばらくしてロジャーが言った。「今日ステラから手紙が届いたんだ。26日に帰って来るそうだよ。決めたんだね。これで解決というわけか」

 「私も今日、手紙みたいなのをもらったよ」と彼女は言った。「私は自分のことは決めた。あなたとステラは、何かちゃんとしたことをしてもいい頃だと思うよ」

 タクシーが西53丁目の角で停まったとき、ロジャーが「10セントでいいよ」と言った。それで彼女はハンドバッグを開けて、彼に10セント硬貨を渡した。「綺麗だね、そのハンドバッグ」と彼は言った。

 「お誕生日にもらったの」と彼女は言った。「気に入ってる。あなたの公演はどうなってる?」

 「ああ、頑張ってるよ。近くまで行くこともないけどね。何も売れてない。俺はやることをちゃんとやって、後は相手次第だよ。話し合いはもう終わった」

 「頑張りどころじゃない?」

 「頑張るというのが難しい」

 「おやすみ、ロジャー」

 「おやすみ。アスピリンを飲んで湯船に浸かるといいよ。風邪を引きかけてるみたいだから」

 「うん」

 ハンドバッグを脇に抱え、彼女は階段を上がった。最初の踊り場でビルが彼女の足音を聞いて、頭を突き出した。髪はもつれ、目は赤かった。「頼むから中に入って俺に一杯付き合ってくれ。悪い知らせがある」

 「ずぶ濡れじゃないか」と、彼女のぐちょぐちょの足元を見てビルは言った。二人は二杯飲んだ。ビルによると、監督がキャストを二度も選び直した挙げ句にリハーサルを三度させ、終いには芝居を放り出したのだそうだ。「俺は監督に言ったよ、『傑作とは言いませんでしたよ、良い芝居になりそうだって言ったんです』ってね。そしたら監督、『これのどこが芝居だよ?こりゃ、医者の治療がいるレベルだぞ』と来た。それで俺は詰んだ。完全に詰んだんだ」と、ビルは再びむせび泣きそうになりながら言った。「ずっと泣いてたよ」と彼は彼女に言った。「酒飲みながらね」それから彼は続けて、自分の奥さんが贅沢をするせいで自分が駄目になりつつある、気づいてたかと尋ねた。「俺は不幸だけど、毎週妻に10ドル送ってるんだよ。ほんとはそんなことしなくてもいいのに。妻は、そうしなかったら刑務所に入れてやるって脅すんだけど、そんなことはできっこないんだよ。神さま……妻は私に辛く当たりますが、どうかそれでも妻にチャンスをお与えください!あいつは扶助料を受ける権利はない、あいつぁ、そんなことは知ってるんだ。あいつは赤ん坊のために金がいるとずっと言ってて、俺は、苦しむ人を見るのが忍びないから金を送ってるんだよ。それで、ピアノと蓄音機ではすっかり遅れをとったなぁ、両方とも……」

 「ねえ、このラグかわいいね、とにかく」と彼女は言った。

 ビルはそれをじっと見て、鼻をフンと鳴らした。「リッチのところで買ったんだよ。95ドルだった」と彼は言った。「昔はマリー・ドレスラー(訳注:カナダの女優  1868-1934)の持ち物で、1500ドルだったそうだよ。でも、今はこれ、焦げ跡があるんだよ、ソファーの下のところ。びっくりした?」

 「別に」と彼女は言った。空っぽのハンドバッグのことを考えていた。彼女が書いてやった、いちばん最近の批評文への支払い小切手は、後三日は期待できそうにない。地下食堂との取り決めだって、彼女が内金を払わなかったらそう長くはもたない。「こんな話をするときじゃないんだろうけど」と彼女は言った。「ほんとだったらあなたは私に50ドル払ってなきゃダメなのよ。私が第三幕に出てあげた分。約束したでしょう。『どこが芝居だ』とか関係ないよ。とにかくお仕事にはお金を払うことになってたじゃない、前金から」

 「涙するキリスト」とビルは言った。「君もかい?」彼は湿ったハンカチに顔をうずめ、大きな音を立てて鼻をすすったりしゃっくりをしたりした。「君のだって、おれのと同じで、つまらんもんだぜ、考えてくれよ」

 「でもあなたは何かもらったでしょ」と彼女は言った。「700ドル」

 ビルは言った。「頼む。もう一杯飲んで、忘れてくれ。無理だし、無理なの知ってるだろ。できるんだったらする。でも、俺が苦しいの知ってるじゃないか」

 「じゃあそれでいいよ」気がついたら彼女は、ほとんど意に反して口走っていた。ここは曲げずにおこうと思っていたのに。二人は黙ってもう一杯飲んで、彼女は一つ上の階の自分のアパートメントに戻った。そこで、彼女ははっきり覚えているのだが、ハンドバッグから例の手紙を取り出し、そしてハンドバッグを乾かすために広げたのだ。

 彼女は腰を下ろし、手紙を読み直してしまっていた。けれども、いくつかのフレーズが何度も読み直しを迫っていた。それらには、残りのフレーズとは別個の、独自の生があった。読み過ごそうとしても、まわりを読もうとしても、それらのフレーズは彼女の目の動きに合わせてついて来た。彼女は逃れることができなかった……。「真剣以上に君のことを想っている……そう、僕は君の話だってする……台無しにするのがどうしてそんなに怖い……たとえ今君に会えるとしても僕は、……ない……このひどいの全部の価値も……終わり……」

 彼女は慎重に手紙をビリビリに破いて、燃えさしの残った暖炉の中で火のついたマッチを当てた。

 翌朝の早い時間、彼女は湯船に浸かっていると、女性管理人が扉を叩いて中に入って来た。冬に備えて炉を動かす前に、暖房の点検をしたいのですがと声を張り立てた。何分か部屋を動き回った後、管理人はびしゃんと扉を閉めて行ってしまった。

 彼女は、ハンドバッグの中の煙草入れから煙草を取り出そうと風呂から出て来た。ハンドバッグは失くなっていた。彼女は服を着、珈琲を作って窓際に座ってそれを飲んだ。間違いなく管理人が盗んだのだ。馬鹿騒ぎをしなければ、間違いなく返って来ないだろう。それなら、もういい。一度こう決めてしまうと同時に、ほとんど殺意に近いような怒りが沸き起こった。注意深くテーブルの真ん中にカップを置き、ふらふらと階下に下りていった。長い階段を三つ下り、短い廊下を渡り、急な短い階段を下りて地下に到達した。そこには顔に煤(すす)をつけた管理人がいて、炉を揺すっていた。

 「お願いですからハンドバッグを返してくださらない?お金は入っていません。いただきもので、失くしたくないんです」

 管理人は腰を浮かすこともせずに振り返り、熱く煌(きらめ)いた目を細めて彼女のことを見た。瞳には、炉の赤い光が映っていた。「何のこと?ハンドバッグ?」

 「金色の布のハンドバッグですよ、私の部屋にある木製のベンチからあなたが盗んだハンドバッグ」と彼女は言った。「返していただかないと」

 「神さまに誓って言いますけど、そんなの見てもいません。神さまに誓って、嘘じゃありません」と管理人は言った。

 「ああ、そうですか、それならご自分のものになさい」と彼女は言ったが、ひどく棘のある声で「そんなに欲しいんだったらね」と付け加えた。そうして彼女は場を後にした。

 生まれてこの方、扉に鍵を掛けなかったことなんてないのは覚えていた。この記憶は、ものを所有したら落ち着かなくなる、いわば内なる拒絶の原則にも基づいていたし、自分は1ペニーも盗まれたことがないと言って友達を戒める前の、どこか矛盾を抱えた自慢にも基づいていた。彼女はこの荒涼とした、形ある「謙虚さ」に満足していた。そしてその「形」というのは、場の状況での自分の意志とは無関係に人生の行き先を命じる、ある確固たる、そして確固としていなければ無根拠でしかない平凡な思い込みを、具体化し、また正当化するために拵えられたものだった。

 この瞬間、彼女は無数の大切なものを奪われてきたのだと感じた。手で触れることのできるものもだし、手で触れられないものもだ。失われたものもあれば、自分のせいで壊したものもあった。忘れてしまったものもあれば、引っ越したときに前の家に置いてきたものもあった。貸したのに返してもらえなかった本、計画倒れになった旅行、言ってもらうのを待っていた、でも聞くことのできなかった言葉、そして、やり返すために本気で言った言葉。そんなことは言わないで済んだのに、棘のある言い方を選んでしまった。何も言わないほうがましだったのに、その代わりに耐え難い言葉で応じてしまった。でも、どうしようもなかったのだ。死につつある友情が何年も気長に続いてゆく苦しみ。愛の、暗く説明のつかない死――かつては彼女の元にあって、そして逃してしまったあらゆるものが一緒くたになって失われてしまった。思い出される喪失という喪失は地滑りのようで、全てが再び失われてしまった。

 管理人は手にハンドバッグを持って、階上まで彼女の後をつけていた。両目には、さっきと同じ真紅の炎が煌めいていた。まだ六段ほどの間隔があったが、管理人は彼女にハンドバッグを突き出した。

 「言いつけないでくださいね。きっと魔が差したんですわ、私。ときどき頭の中がおかしくなるのよ、ぜったいそう。うちの息子でも分かることなのに」

 彼女は少しの間の後でハンドバッグを受け取った。管理人は続けた。「もうすぐ17になる姪っ子がいるんです。優しい子で、その子にあげるつもりだった。かわいいハンドバッグが要るから。私、おかしくなってたんですよ。あの、お言葉ですけど、あなたいろんなものを散らかしてるのに、そのことに気づいてないのかしら」
 「いただきものだから返してほしかったんです……」と彼女は言った。

 「これを失くしたって新しいのを買ってもらえるでしょう」と管理人は言った。「姪っ子はまだ若くって、かわいいものが要るのよ。若い人にはチャンスをあげなくちゃ。ほら、結婚したいなってなって、あの子にはちゃんと若い男の子がいるんですよ。かわいいものだって持ってないと。ほんとに今、そういうのが要るんだって。あなたは大人の女性で、これまでにはチャンスだってあったでしょう。分かってるはずよ」
 彼女はハンドバッグを管理人に突き返して、こう言った。「自分で何を言ってるのか分かってないでしょ。ほら、あげるよ。気が変わった。もうこれ、要らないんだって」
 管理人は忌わしそうに彼女を見上げて、言った。「私だってもう要らない。姪っ子は若くってかわいいから、かわいく見せようとしなくてもいいからね。若くってかわいいんだからね、とにかく!ほんとはあなたの方こそ要るんじゃないのかしら」
 「そもそもあなたのじゃないでしょう」と彼女は言って後ろを向いた。「私があなたから盗んだように言わないで」
 「私からじゃなくって、姪っ子から盗もうとしてるんですよ」と管理人は言って階段を下りていった。
 彼女はハンドバッグをテーブルに載せ、腰を下ろした。珈琲は冷たくなっていた。そしてこう思った。「私以外の盗人なんて怖くない、この判断は正しかった。私っていうのは結局、私に何も残さないのだから」