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内海健 『うつ病新時代 双極性障害という病』

書評

うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)

うつ病新時代―双極2型障害という病 (精神科医からのメッセージ)

 先日紹介した、加藤忠史『双極性障害躁うつ病への対処と治療』と同様、精神科医による双極性障害についての著作であるが、そのアプローチの仕方はかなり違う。加藤の著作は、一般読者向けに、肉体としての身体(つまり脳や遺伝的な資質)の観点から、古くは「躁うつ病」と呼ばれた「双極Ⅰ型障害」を大きく扱っている。それに対して本書は、主に臨床医に向けて(著者の内海は、執筆の途中で、一般読者向けの著作の執筆を依頼されていたことに気づいたとのことだ)、現代日本という地誌的、歴史的に特殊な文脈の中に胚胎され、それを本質的な形で反映した、あるいは時代を先取した疾病であると彼が示唆する双極Ⅱ型障害」(鬱と軽躁の連続的な波、および両者の混在)を、「うつ病」と「躁うつ病」の折衷ではない、固有の疾病として論じている。

 加藤の本書での企図を、少し長くなるが第一章から引いてみよう。
 

 従来の気分障害では、病的なものはもっぱらマイナスの方向性を示すとともに、一定の安定性をもつ。それに対し、BPⅡ(引用者注:双極Ⅱ型障害)では、時として状況を打開するものであったり、かと思えば、想像を超えたネガティブな結果をもたらしたりする。触れ幅が激しく、波乱に富んでいる。時として気分障害以外の疾病へと接続することもある。いわゆるcomorbidity(引用者注:2つの病気が並立していること)という現象である。
 多彩さ、豊饒さは、時として創造性に結びつく。気分障害圏は、従来、分裂病圏やてんかん圏と比較して、ゲーテのような例外はあるにせよ、想像性において疎であるとされてきた。だが、この類型は、病のもつポテンシャルが励起された様態にある。停滞を嫌い、つねに変化を志向し、凡庸な正統よりもマージナリティを嗜好し、オリジナリティに富む。

 このように、双極スペクトラム(引用者注:双極Ⅱ型障害に同じ)は、気分障害の風景を一変させるものである。それは混沌としたアモルフな(引用者注:明確なかたちをとらない)連続体をなしている。気分障害の一つの新しい形であると同時に、従来のうつ病をもそこに含みこむ普遍性を携えている。つまりはうつ病の概念自体の変更を迫るものであるのだ。
 このスペクトラムはもはや類型(Typus)ではない。類型に押し込むとその姿をとらえそこなうことになる。とはいえ、この渦巻く濁流の中で、思考そのものがアモルフなものへと散逸しないために、本書ではあえてこのスペクトラムを「双極Ⅱ型障害」という類型で代表させるのである。ただ、繰り返すようであるが、これは単なる一疾病論にとどまるものではない。気分障害の本質へと突き抜ける射程をもつものである。そしてさらには、「近代以降」という時代ならぬ時代を映し出すものとして描き出すものとして描き出せればよいと考えている。(pp.32-33)

 もっとも、私にとっては、本書の一番の魅力は、この疾病と社会との接続回路について論じた部分にあるのではなく、この疾病の独自性と「かたちの定まらなさ」についての詳細な記述にある。著者がもともと「精神科医に向けて」書き始めたこともあり、多様な症例とともに、疾病の特徴と、その独自性がかなり専門的に、深く記述されている。背景には、うつ病の診断指標(DSM)が登場したことに代表されるように、精神医療が過剰に簡便化していることへの危機感、そして、著者が現場で目撃した、この双極Ⅱ型障害という疾病を見落とされたために、病症が悪化し、自傷や自殺未遂をした患者たちの存在がある。本書あとがきから引こう。
 

 帝京大学に移って驚いたのは、過剰服薬やリストカットなど、自傷行為の事例の多さであった。救命救急センターがあるためだろうが、それにしても尋常とは思えない多さであった。しかもその多くが、その頃から増え始めた精神科クリニックからの事例である。
 かつて、自殺企図はもちろん、過剰服薬はあってはならないことだった。医者にしてみれば決定的な治療的敗北である。それが日常茶飯事のように処理されていく。しかも、こうした痛ましい事例を出した病院やクリニックの医師から、進んで情報提供を受けたことはほとんどなかった。ひどいところになると、「そんな人はうちでは診れません(引用者注:ママ)」、「あとはそちらでやってください」というような応答だった。こうした事例を、まだ経験の浅い大学病院の若手医師たちが、当直や往診で対応に当たるのである。臨床教育の現場をあずかる者として、私は心を痛めた。何とかしなければならないと思った。
 事例を丹念に診ていくうちに、気分障害が多数を占めるのはもちろんであるが、双極性が見落とされている場合が多いことが次第に明らかになってきた。しかも、そのかなりの部分が抗うつ薬による行動化であった。軽躁状態からストンと抑うつに陥ったり、病相が不安定になったりするパターンが、容易に見て取ることができた。端的に言えば、医原性だったのである。しかも、こうした行動化を引き起こしておきながら、一転してそうした症例をパーソナリティ障害と決めつけ、そればかりか、自分はもう診れぬ、と切り捨てる、そんな事例すら存在したのである。(pp.220-21)

 先日の加藤の著作には、双極性障害の診断には平均8年かかっているという非常にショッキングな事実が記されてあった。それまでに、多くの患者が、双極性を見落とされ、不適切な抗うつ薬の処方から躁転し、自傷や自殺(未遂)という行動を起こしているのかもしれない。(たとえば本書p.75 には「初動のわずかな遅れが、予後を大きく左右する可能性が、この疾患にはある」と記述されている。)上の帝京大学精神科での話は、1995年のことである。また、当初精神科医に向けた執筆と著者が誤解していた本書の初版が、2006年である。だから、双極Ⅱ型障害は、一般の人はもちろんのこと、専門の医師にとっても、理解しがたい、新しい病なのだろう。加藤も、診断の困難さを率直に認めているし、内海も、現場の医師の困惑を紹介している。あるいは、本書は当初、困惑している現場の医師に向けて書かれていたのだということを思い起こしてほしい。

 内海の、双極Ⅱ型障害の詳細な記述から、私もまた、直感的にではあるが、この病が、この時代、この社会の陰画であることを感じ取る者である。ただ、その時代との接続を論じるにあたっては、ページ数の制約があったのだろうか(わずかに20ページ弱だ)、「大きな物語の終焉」などは、その病の深淵を見通すための道具としては荒削りに、あるいは陳腐に過ぎるように思う。内海の200ページほどに渡る丹念な疾病の観察は、読者に、精神の闇の深さを思い起こさせ、その神秘への畏れから身震いさせるほどだから、尚更だ。論理展開も粗い。たとえば、双極Ⅱ型障害は、「同調」をひとつの大きな特色とするのだが、著者は、この事実と現代とを連絡させ、「大きな物語」が終わった今日、双極Ⅱ型の患者にとっては「その場その場の現前する相手が、自分に承認を与える者となる。このことがしばしば発達史の早期から認められることは…」と書く。(p.211) しかし、「発達史の早期から」であれば、この記述は時代や社会を超えて妥当するのではないか。あるいは、内海は「所有することのもつ、主体の安定をもたらす力能が著しく低下している」ことに注目するが(p.213)、ここから「価値ある所有物が次々と失われていく中で、ついには身体までが、軽々しい所有物へと転化している」とは、いささかの飛躍があるだろう。

 それでも、本書において、臨床医である内海が、多数の双極Ⅱ型の症例から、その複雑な病症を複雑なまま、決して躁うつ病うつ病のマイナーな異型ではなく、それ自体が本質的な意味をもつものとして剔出した意義は間違いなく大きい。そして、この疾病を、今われわれが生きる社会の文脈と相互接続する可能性を示唆した意義も大きい。ただ、本当に回路を繋ぐのは、今後の私たちに委ねられている。

現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー

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「うつ」の構造

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