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葛西賢太 『現代瞑想論―変性意識がひらく世界』

書評

現代瞑想論―変性意識がひらく世界

現代瞑想論―変性意識がひらく世界

 瞑想とは、多くの宗教の中で実践されるが、本を一読して学べるようなお手軽なものではない。経験豊かな師に就いて時間をかけて学ばなければならない。瞑想と一言で言っても、宗教により、宗派により、あるいは特定の宗教を標榜しなくても、種々の団体によって、さまざまな瞑想法がある。個人によって相応しい形態は違うであろうし、著者は、瞑想がときに個人的、社会的に危害を齎すものにもなり得ることに警鐘を鳴らしている。

 この本は、『現代瞑想論』と題されているが、より広範に「変性意識論」と解釈するのがよいだろう。「変性意識」状態とは、その漢字を見ることから察しがつくように、日常の意識状態とは異なる意識状態を指すのであるが、日常においてわれわれの意識はかなりの程度「自動化」されている。それはたとえば、私がこの文章をキーボードで書いているときに「自動化」と入力しようと"j-i-d-o-u-k-a"と考えずに指が自動的に動くような、電車の乗降の際に、列を作り、効率よく乗り降りをし、滞りなく電車が発車できるように知らずと自動的に集団に協力しているような、そのような意識状態である。そして、その日常的な意識状態は、感情の変化や仕事への集中等で刻々と変容する。私たちは、この「自動化」かから、意識的に距離を置き、また、意識の「変容に意識的で」あろうと、それまで見落としていたものに注意を払おうと努力することができる。それが、本書が扱う、広義での「瞑想(的意識状態)」である。したがって、本書は、特定の宗派に偏ることなく、とりわけ忙しい日々を送る現代人に向けて書かれている。著者は仏教徒であり、瞑想の経験は30年以上になる。大学で宗教学を学ぶ以前から、聖書やコーランにも親しんでいるとのことだ。

 本書が扱う射程は広い。シャーマンの意識変容、コーヒーやアルコール、薬物による酩酊と依存、痛みに対する「笑い」の効能、スポーツ選手のフロー体験、宗教的な回心をしたものの語り、アルコール依存症や終末期医療における「他者との語らい」などだ。「現代瞑想」の扱う射程が広くなったために(あるいはそれをさらに超えたものまで1つの本で扱おうとしたために)、事例や議論の一つ一つの扱いが手薄になってしまった印象は否めない。それでも、日常を超越した意識を経験した人々について知るのは興味深い読書体験であった。(ついでだが、あるいはコーヒーやアルコールという薬物が、意識を非日常化される手段として、現代日本では社会的な合意を得ているという観点は新鮮だった)。そして、それらは、それを体験する本人にとっては「心的現実」なのだ。この視点は、本書では一貫しているし、そうでなくては、ときに神秘的体験でもあり得る「変性意識」を扱うことはできないだろう。

 本書のユニークな点にもう一つ触れておこう。一般の読者は「瞑想」という語からは連想しにくいかもしれないが(私たちがこの語から一般に想起するのは、僧侶の厳しく孤独な営為だ)、本書は、「他者との語らい」を非常に重視していることだ。このことは、アルコール依存から脱却しようとする人々の団体、死や喪失、終末期医療に携わる人々について扱った章(特に5、6章)で特に大きく扱われているが、ここで紹介される意識変容については、書を改めて、まとまった考察を読んでみたいと思ったところだった。

 在家の現代人が日常的で忙しい日々を送る中で自己を見つめる方法としての瞑想、あるいはそこから生じる自覚的な意識変容について実践するのは、良き師に就いて学ばねばならないとしても、その瞑想の体験とは一体どのようなものか、本書を通底する「時間」「意識」「他者との関わり」という軸から、今後の著作でさらに浮かび上がらせてくれることを期待したい。宗教的な瞑想だけでも、それを日々実践しない人間にとってはなかなか想像しにくい一方、それでも、「よく分からないけれども惹かれる」という思いで本書を購入したのだから。