Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

カツ丼、あるいは豚の眼について。(1000字エッセイ)

 小学生の頃に教室で読んだ文章に感銘を受けたことがあって、今では詳細は思い出せないのだけれども、あのときの強い印象が今でも私を捉えることがある。

 その文章を書いたのはたぶん本格的な作家で、小学生向けの「文章読本」のような位置づけのエッセイだったのだろうと思う。「瓜二つ」だったか「猿真似」だったか、そこで挙げられた例は忘れてしまったのだが、その著者は「真剣にものを書く人は、そういう『手垢のついた』ことばは避けるものです」という趣旨のことを書いていらして、私はまだ小さな子どもでありながら、その言い分に大層興奮したのだった。

 爾来私は、何かを考えようとするたびに「自分は『お仕着せ』の言葉に囚われていないか」という懸念に取り憑かれるようになった。我が物のつもりのことばが、あるいは比喩が、お仕着せであるとしたならば、そこに何の値打ちがあるだろう。私の思考に、何の値打ちがあるだろう。

 こう書いてみると、相反する方向からの思いが私を打つ。一度でも鎮座して瞑想することを試みたことがある人ならご存知だと思うが、平凡な人間の想念など、ちりぢりで脈絡のない概念のあつまりでしかないことを私は疑わない。独創は、雨乞いをしても降ってこない。

 「お仕着せ」と「ちりぢりの概念」だけが人間の心を統べているとしたら、怖ろしいことだ。

 今日のITは言うまでもなく「お仕着せ」を易々と扱うであろうし、「ちりぢりの概念」については(多分)ビッグデータが既にその概念を個人以上に精確に把捉しているのだと思う。

 

 今日、人は、そういう類の気味の悪さに無頓着である。マニュアル通りに運営された、フランチャイズ展開されたレストランで、人はTwitterを見ながらカツ丼を食う。人工飼料で太らされ、(もちろんかれらからは見えないところで)屠殺された豚の肉を食いながら、かれはビッグデータをfeedする。データは人の飼料となる。

 この間、知った中学生が、自分たちは近々豚の眼球を解剖するのだと教えてくれた。良いことだと思った。その豚の死んだ眼は、好奇と畏れの混じったかれらの瞳を見つめるであろう。かれらの活きた瞳は、そこに何を見透すのだろうか。

 私の瞳は、惰性と雑念を超えて、これから何を見られるだろうか。そもそも私は、生きているのだろうか。