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黒澤明『羅生門』 『どん底』 マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』 ―最近観た映画より

映画評

『どん底』

 ゴーリキーの同名の戯曲を、舞台を江戸時代に設定したもの。酒や博打でどうしようもない人間たちの、「絶望しきれない悲哀」を描いた作品。大人数が、まるで昔の刑務所の大部屋のような一部屋に住み、入って行ったり出て行ったりする。左卜全演じる嘉平という人物は、途中から入ってきたのだが、皆のカウンセラーのような役柄で、僕はとても好きだった。

上に貼った映像で、黒澤の『どん底』で生きる人々が唄う唄をお聴き下さい。彼らのやり場のない絶望を陽気で否認し、暴力的に無化するほどの圧巻の音楽に、踊りに、僕はかえって肌が粟立つような思いをさせられました。

原作はゴーリキー『どん底』

どん底 (岩波文庫)

どん底 (岩波文庫)

羅生門
 

 この映画は、高校生のとき以来の鑑賞。黒澤が1951年、ヴェネチア映画祭でグランプリを獲得し、その名を世に知らしめた作品。(なお、本作は、1982年に、過去のグランプリの中で最高の「栄誉金獅子賞」を受賞している)

 一人の武士が殺された。その経緯について、殺害した盗賊が、殺害された武士の妻が、殺害された武士を降霊術によって語らせる巫女が、まったく矛盾したことを言う。それなのに、それらのストーリーは全て等しい現実感をもって描かれる。最後に、事件を目撃していた庶民が、また別の話をする。それもまた、それまでの――つまり、おそらく「嘘」である可能性が高い――ストーリーと等しい重さをもって描かれる。どのストーリーの中でも、俳優たちは、そのストーリー通りに行為する。どの語りにも軽重がつけられず、複数の矛盾する場面の並存によって、真偽は相対化される。ここにあるのは、順序だけだ。観る者は、最後の語り手の語りを信じようとも、他の語り手の語りが真である可能性を完全に棄却することはできない。

 映画の最後、庶民を演じた志村喬が、捨てられた赤子を抱いて歩き去るシーンは素敵だが、何よりも印象的なのは、羅生門を打ち付ける激しい雨、そして、山の中の眩しいほどの日差しだ。もちろん、このフィルムは白黒で撮影されたのだが、それだけいっそう、と言おうか。

 原作は、芥川龍之介『藪の中』。

藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)

『タクシードライバー』

不満の鬱屈した社会で散発的に、「殺すのは誰でもよかった」という事件が起こる。そして、その動機の不可解さは、間違いなく僕たちを当惑させ、ときに震撼させる。記憶に新しい、単独犯によるものでは、2008年の秋葉原の事件、そして、僕自身は生まれる前だが、今日でも多く言及されるのは1968年の当時19歳の永山則夫による事件である。

 この映画の主人公であるタクシーの運転手は、ニューヨークを走りながら心底うんざりしているベトナム帰還兵である。ニューヨークの街行く人々全てを穢らわしく思っている。彼の心の荒びは亢進し、強力な拳銃とサバイバルナイフで武装し、大統領候補を殺害を企てるまでになる。(理由は理不尽だ。彼に愛想を尽かした女性が、大統領候補の選挙事務所で気の進まぬままに仕事をしていたからだ。)それが、その殺害には、すんでのところで失敗。それどころか、その失敗の後で、12歳半で売春をしていた少女(当時13歳のジョディ・フォスターが演じている)の取り巻き――彼らもまた「穢れたニューヨーク」の悪者だ――を殺害して、皮肉にも彼は英雄になる。

 彼の真面目さは、アメリカ社会の頽廃的な空気によって損なわれ、狂気・凶悪な暴力と表裏一体だった。いや、水際ではなく、事実、その水中に足を浸していたといってよい。それなのに、彼の狂気と暴力の発現は、「善良な」アメリカ社会からは賞賛をもって迎えられた。

 何という皮肉だろう。何という皮肉なのだろう。彼は、「殺してもいいような虫けら」とアメリカ社会から見做される者たちを殺し、そのことで身を売っていた少女を救うことになったから英雄になった。そしてこの偶然が可能になったなのは、彼がはじめに大統領候補を殺し損ねたからだ。結局、彼にとっては、殺す相手は、彼ら一味ででなくてもよかった。彼が、12歳半で身を売る少女に憐憫の情を寄せていたのは間違いない。しかし、殺す相手は、ニューヨークの、あるいはアメリカの「(精神的に)汚らしい」と、彼が思い込む「誰か」であれば、誰でもよかったのだ。別の言い方をすれば、彼は、ある意味合いにおいては、不定冠詞のついた永山則夫であったかもしれないし、時代を下れば、加藤智大であったかもしれないのだ。