Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

緩やかさ

[書評]

緩やかさ

緩やかさ

この小説が好きだ。

私は、思考が挑発されるのを感じるから。(つまりは、自らの信念だと思っていたものが、単なる抽象にすぎなかったのではないかとドキリとさせられるから)

私の、言葉にならなかった言葉が語られるのを聞くから。

ほとんどいつも、にやりとするほどに可笑しく、たまげるほどに下品で醜悪だから。

○○○○


クンデラが初めてフランス語で書いた記念碑的小説。自由奔放でチャーミングな物語だ。

何という狡猾なユーモア!意地悪な風刺!!

…「ご婦人がいらっしゃるまえで、わざとらしいほど華々しい考えにこだわる、そのこだわり方はきみのリビドーの憂慮すべき逆流を示しているんだよ」(pp.33-34)

声を上げて笑いそうになった。私もそんな諧謔を弄した軽口を言われそうだ、この小説が好きだとなんて言っていたら。

このディレンマのか細い溝の底の暗渠で、クンデラは哀しく笑っている。  

ジャック・ロンドン 『火を熾す』

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

 生涯を通して200本の短篇小説を残したジャック・ロンドンの、珠玉の9本の短篇集。訳者である柴田元幸は「ロンドンの文章は剛速球投手の投げる球のような勢いがあり、誠実で、率直で、ほかの作家ではなかなか得られないノー・ナンセンスな力強さに貫かれている」と評するが、さすが日本を代表する英文翻訳者、その勢いがそのまま伝わってくる訳文の短篇ばかりである。

 本書には『一枚のステーキ』という短篇が収められている。「ステーキを一枚食うことさえできたら…」と悔やむ、年配のボクサーの物語だ。ジャック・ロンドンの短篇は、豪快に焼かれ、シンプルに味付けされた良質なステーキの旨さを思い起こさせる。人間の生が、野生性が、ありありと描かれていて、とは言っても、決して大味ではなく、深い味わいと余韻を湛えている。

 そして、ロンドンの短篇は、私たちに、人生を生きることとは、戦うことであるということを教えてくれる。相手が、極寒の大自然であれ、意地悪なボクサーであれ、内なる他者であれ。勝つこともあるし、負けることもある。それでも、私たちは、戦いを通して、強くなれるのだ。これは素朴な人生観だが、幼い頃からのそんな希望を想って胸が温かくなった。

岩井俊二監督 『スワロウテイル』


 僕が子供だったとき―80年代の終わりから90年代の初めにかけて―小学校では「未来の日本」をテーマにした絵を描かされたものだ。絵の中では、翼のある車が空を飛んでいて、華やかな空中庭園があった。後の子供たちもこんな絵を描かされたのだろうか。いや、きっとそんなはずはない。ちょうど僕が子供だった時を境に、人々は、未来は常に輝かしいという幻想を捨て去ったに違いない。未来はもはや夢物語ではなく、緩慢な現在の延長へと堕したようだった。

 そして、僕が思春期を過ごした90年代という時代がある。人々は、バブル景気の終焉を経験し、豊かさの極点から緩やかに下落していくように感じていた。成熟した経済の中には、依然豊かな人がおり、貧しい人が増えつつあった。世界のグローバル化が進んでいた。華やかな虚構があり、欲望と挫折があった。女子高校生の売春が問題視され、欲望と挫折が渦巻いていた。激しい暴力の予感があり、それは時に具体的な形で爆発した。どこにも行かない豊かさに、多くの人が虚しさを感じていた。それはおよそ、黄昏のような時代だった。

 岩井俊二監督の描く『スワロウテイル』は、それら「全てを」織り込んだ哀しい映画だ。同時に、社会から弾かれた人の絆を描いた、希望の物語だ。20年近く経った今の時代は、90年代よりも明るいだろうか、そんなことを想った。

村上春樹 『約束された場所で underground 2』

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

宗教的理想郷の対極にある現実世界は、入り組んでいて、理不尽だ。それが愉快だと哄笑する人であれば、宗教を希求することはたぶん、ない。

 私は、この、オウム信者へのインタビュー集を読んで、人ごとではないと只ならぬ胸のざわつきを感じた。私は、現実(あるいは心)が複雑で不条理であることをよく知ってはいるけれども、その事実は私を長年傷つけてきたし、今も疼きは消えない。もし微弱な自分が、現実世界に圧倒され、語らう友もいず、よろめきながら、なお理想を求めようとしていたら、清廉を装う(そして修行を通して身体の変容を目指す)宗教団体に、自己を差し出す可能性がなかったとは私には言えない。社会から落伍していたら、教祖らの説法が論理的で迫力あるものだったら、私は、自己の判断力ごとグルに差し出していたかもしれない。私は弱かったし、今も弱い人間だ。

 だから、私は、本書のインタビュイーの(元)信者達の心情に寄り添うことはできる。彼らは純粋に、宗教的実践者として自己を変革しようとしていた。私自身も、仏陀親鸞の宗教書を持ってページを繰ることもあるし、下手な瞑想をしてみることもある。もっとも、私は、どういった宗教団体にも所属してはいないし、宗教的な同志がいるわけでもないが。

 違いといえば、私には後知恵があることだ。もちろん、副次的には、私は世界の不条理を(疼きとともに)まるごと抱きしめられるようになってきたし、文学や思想という糧もまた私を精神的に深めてきてくれたように思う。それでも、私は、依然愚かだし、弱い。後知恵があるだけで、彼らに後ろ指を指すことはできない。

平野啓一郎 『空白を満たしなさい』

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

 生きていることの掛け替えの無さが、鮮やかに描かれたすばらしい小説。

 ある事情で主人公土屋徹生は死んだ。彼には、妻が、息子があった。愛する母も、信頼する仲間もいた。徹生の死によって、それらの関係性は―つまり、徹生との生を生きていた、彼ら彼女たちの生の部分はいったん消尽した。しかしそれから三年後、どうしたことか、徹生は、復生して再びこの世に現れる。何故俺は死んだのか、これからどう生きるべきなのか…徹雄の悶々たる自省は、彼が拠って立つ周りの人達との相互作用で、氷解していく。

 この物語に待つのは、幸せな結末ではなく、苦しく哀しい余韻だ。しかし、彼が愛する家族は、最後まで何と美しく描かれていることか。私が泣きそうになったのは、いつも徹雄の家族を通してであった。「生きたい!」―徹生のこのシンプルな強い思いに、私は強く共感し、救われる思いがした。

 解明されない重大な謎がひとつ残った。「佐伯」という男は誰だったのか。彼は、主人公の徹生にだけでなく、我々皆に忍び寄りうる、死への暗い誘いを象徴しているようだ。彼が徹生にとって「父」であった可能性が示唆されているのはどういうことなのか。暫定的な答えだが、徹生は、私たちにいつまでも付き纏う象徴的「父」の影―ともすれば私たちの個人性を剥奪し、生に意味を賦与することを拒絶する暴力的な「父」の影―と最後まで闘っていたのではないか。この「父」は徹生にだけ現れた種類のものではなく、私たち皆が心の暗部に抱え、抗っているはずなのだ。だからこそ、この小説は普遍性をもった、「父」の超克、生への憧憬と礼賛へと昇華されうるのだ。

 本書で現れる「分人」という重要なアイディアについては、先日ブログで紹介した同著者の『私とは何か―「個人」から「分人」へ』に詳しい。こちらは小説ではないが、読みやすいだけでなく、私たちの人生への深い含蓄を持っている。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

夢の話

こんな夢を見た。


山の頂で、少女が音楽を待っていた。黄昏が近かった。

頂の向こうからロープウェイが登ってきた。中では老紳士がフルートを吹く仕度をしている。少女に音楽を届けてやろうと大急ぎで銀色の楽器を組み立てている。

老紳士のフルートの調べはしかし、頂を過ぎてから漸く聞こえてくる。遠ざかるフルートの音色。遠くへ、遠くへ、遠くへ…フェイド・アウト。

肌寒さと美しい残響が少女を包んだ。私は、山々に囲まれ、音楽を待っていた。

平野啓一郎 『私とは何か―「個人」から「分人」へ』

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)


通常私たちが、自身を「私」として捉える時、それは統合されたひとつの人格をもつ「個人(individual)」としてだ。ところが本書は、この先入観は、実のところ私たちの実感に合わないのではないかと疑義を呈する。

 私は、家族と話す時、恋人と話す時、友人と話す時、職場で話す時では、それぞれ別の自分を持っている。いくらperson(人)の語源がラテン語のpersona(仮面)にあるといっても、私は意識的にそれぞれの仮面を身に着けているわけではない。それぞれの自分は対人関係の相互作用の中で無意識的に現出する。そして、それぞれの私が「本当の私」だ。誰もこのことで、私を「仮面を使い分ける本質のない輩」と批難したりはしまい。誰しも、対人関係のネットワークの中で複数の自分を生きているはずだ。

 本書は、そうした複数の自分のそれぞれを「分人」と名付ける。英語のindividualが、「分割不可能」という意味であるのを意識し、実のところ私たちは、分割「可能な」個人であり、それぞれの自分が「本当の自分」なのだというメッセージが込められた言葉だ。

 このモデルを導入すると、私たちの人間関係への見通しはずっと良くなる。あるいは、私たちが複数の「分人」を生きていることを考えることは、積極的な生の楽しみ方、人間関係のストレスを和らげる仕方を考えることでもある。

 作家平野啓一郎が、作品を創る中で創案した「分人」の概念に救われる思いをする人も多いことだろう。

 もとは口述したもので、平野が全面的に書き直した。とても読みやすく、一気に読め、しかも深く考えさせられる一冊。これからも時折、人生の指針を求めて頁を繰ることになるだろう。