Taku's Blog(翻訳・創作を中心に)

英語を教える傍ら、翻訳をしたり短篇や詩を書いたりしたのを載せています。

アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

すごい小説だ。

日本ではほとんど知られていない作家であろうから、簡単に紹介しておこう。アティーク・ラヒーミーは、アフガニスタン生まれの小説家・映像作家である。氏は、初めてフランス語で書いたこの小説で、2008年、フランスでもっとも権威ある文学賞である《ゴンクール賞》を受賞した。

舞台は、戦争中の「アフガニスタンのどこか、または別のどこか」だ。ある家の部屋で、植物状態の男を、妻である主人公が介抱している。この女主人公の名は最後まで明かされない。物語の語り手は、その部屋に固定された映画のキャメラのようだ。語りは現在形で、臨場感をもたらしている。たとえばこんな具合だ。
 

カーテンの黄色と青の空の穴から陽の光が消えて行く時、女は部屋の入口に再び現れる。男を長い間見つめていから近づく。呼吸を確認する。男は息をしている。点滴バッグの中身がなくなっている。「薬局が閉まってたから」と女は言って、あきらめたように、次の指示があるのを待っているが、反応は何もない。呼吸の音の他は。女は部屋から離れ、液体の入ったコップを持って戻ってくる。「この間のようにしなくては、塩と砂糖水で…」
 手慣れた素早い動きで、女は男の腕からカテーテルを外す。点滴針を抜く。チューブを掃除し、半開きの口に入れ、食道に達するまで押し込む。それから、コップの中身を点滴バッグの中に入れる。一滴の量を調節し、一滴ごとの感覚をチェックする。一呼吸ごとに、一滴。
 そして再び部屋を出る。(pp.19-20)

 女は、何も反応しない男に語りかけるうちに、どんどん雄弁になる。女の独白は、私達が、女の過去について、これまで女を取り巻いてきた人々について、知ることを可能にする。そして女は、ただ語ることで、世界が女性に課す抑圧から解放され、智慧と勇気と自由を得ていくようである。

 静謐な空間の中で、一人の女性が再生するこの物語が、多くに人に読まれればと願う。

マリオ・バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』

若い小説家に宛てた手紙

若い小説家に宛てた手紙

若い、小説家志望の人に手紙を通して語りかけるという設定で、小説というものの仕組みが、テーマ別に易しく書かれている。語られるのは、「説得力」「文体」「語り手、空間」「時間」「現実のレヴェル」「通底器(ちがった時間、空間、あるいは現実レヴェルで起こる二つ、ないしはそれ以上のエピソードが語り手の判断によって物語全体の中で結び合わされること 本書p.137)」など、基本的なことに限られる。「異化」や「転移」など、ほんの少しだけ専門用語が出てくるが、大江健三郎の『新しい文学のために』などに比べると専門的では全然ない。小説家志望の人はもちろんだが、小説、世界文学に興味のある人全てに強く薦めたいと思う。

バルガス=リョサラテンアメリカ出身の作家ということで、本書には、ラテンアメリカ文学が随所に登場する。ガルシア=マルケスはもちろんのこと、ボルヘスコルタサルといった具合だ。また、作者は、フローベールカフカ、フォークナーらへの尊敬を隠さない。本書にはたくさんの作家のたくさんの作品が登場するが、それらのどれもが(大半は未読であるにもかかわらず)、何と魅力的なことか。

少し長くなるが、バルガス=リョサの、作家としての覚悟を引用しよう。(本書p.16)

文学の仕事というのは、暇つぶしでも、スポーツでも、余暇を楽しむための上品なお遊びでもありません。他のことをすべてあきらめ、なげうって、何よりも優先させるべきものですし、自らの意志で文学に使え、その犠牲者(幸せな犠牲者)になると決めたわけですから、奴隷に他ならないのです。パリに住んでいた私の友人の場合がそうであったように、文学は休むことのない活動に変わります。ものを書いている時間だけでは収まらず、そのほかすべての仕事にまで影響を及ぼして生活全体を覆い尽くしてしまいます。つまり、文学の仕事というのは、あの長いサナダムシが宿主の体から養分をとるように、作家の生活を糧にし、そこから養いをとるのです。フローベルは、「ものを書くのはひとつの生き方である」と言いました。これを言い換えると、ものを書くというのは美しいが、多大の犠牲を強いるものであり、それを仕事として選びとった人は、生きるために書くのではなく、書くために生きるのである、となるでしょう。

私は、バルガス=リョサにすっかり魅了された。次は、代表作の『緑の家』を読み進めていくつもりだ。

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(下) (岩波文庫)

緑の家(下) (岩波文庫)

矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

著者はこの分野の専門家ではないが、多くの公文書や国内法、国際法、条約を参照しつつ、平易な「です、ます」調の筆致で、透徹した議論を展開している。

なぜ、日本は、「基地」と「原発」を止められないのか。そこには、敗戦国日本と戦勝国米国との間の歪な力学があった。そして昭和天皇をはじめとした日本人自らが、その歪な構造の保持に加担してきた歴史があった。

例を挙げよう。米軍機は沖縄県民の住宅の真上を低空飛行する権利があるし、実際にしている。危険であるから、在日米軍の住宅地域では決して行わないにもかかわらず。(日米地位協定の締結にもとづいた国内法である「航空特例法」)それでは、沖縄県民の基本的人権日本国憲法で守られないのか。守られない。砂川事件最高裁判決で持ち出された「統治行為論」(「簡単に言うと、日米安保条約のような高度な政治的問題については、最高裁憲法判断をしないでよいという判決」)があるから。驚くべきは、2008年に、「砂川裁判の全プロセスが、検察や日本政府の方針、最高裁の判決までふくめて、最初から最後まで、基地をどうしても日本に置きつづけたいアメリカ政府のシナリオのもとに、その支持と誘導によって進行した」ことが、アメリカの公文書によって明らかになったことだ。また、本書では、昭和天皇が、「沖縄(および必要とされる他の島々)に対するアメリカの軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期リース―二五年ないし五〇年、あるいはそれ以上―というフィクションにもとづくべきだ」との考えを示していたことも紹介される。(進藤榮一氏が発見したアメリカの公文書)。そして「原発」の問題。2012年6月27日に改正された原子力基本法第二条第二項。「前項(=原子力利用)の安全の確保については、(略)わが国の安全保障に資することを目的として、行なうものとする」とある。これは、原発の安全性に関する議論が、最高裁憲法判断の枠外に移行することを意味する。(原発の設計許可や安全性審査については、本書で紹介される「裁量行為論」「第三者行為論」も参照のこと。)

著者は、中道リベラルを自認している。アメリカとの不平等な関係に憤っている。米軍は日本から完全撤退すべきだと信じている。そして、私達自身が、真に民主的な憲法を書くべきだと主張している。そうした主張に私は賛意を表明するし、また拍手を送りたい。

安倍政権は、歴代内閣の現行憲法の解釈を無視し、集団的自衛権の行使が認められるとした。さらに、特定秘密保護法を施行させた。それらがアメリカの軍事戦略の一環であることは想像に難くない(と私は思う)。私は、日本と米国との対等な関係を望む。そして、自民党草案のような前時代的な「憲法」ではない新しい憲法、また、米国との条約や密約、「解釈改憲」で空文化した現行憲法に代わる、新しい憲法を創るという壮大な夢に共感するひとりだ。

安部公房『砂の女』 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 安部公房の『砂の女』を再読した。

 昆虫採集を趣味とする、教師である男がいた。かれは、砂に惹かれ、砂原に住むハンミョウに惹かれ、ひとり砂原を歩く。

 日が暮れ、もはや帰途につけなくなった男は、行きずりの部落で宿を借りることにする。あてがわれたのは、ひとり女の住む、砂原にぽつりと空いた穴の底の一軒家だった。

 翌朝、男は帰してもらえない。昨夜はあった縄梯子は取り去られていた。男には、女と生活を共にし、家屋が砂で埋まらないように砂掻きをすることが期待されていたのだ。

 男はしゃにむに脱出しようとするがなかなか成功しない。男に待つ運命は…?


 非現実的な設定ながら、同時に、徹底的にリアリズムを追求して書かれた小説として読めるのは、多くの評者の言うとおりだ。公房は、冷徹な観察眼を保ちながら、物語を駆けさせる。読者を置いてけぼりにするほどの勢いで。私達はいつの間にか、砂穴のなかの家屋で繰り広げられる悲喜劇が、とおく現実を離れたものであることを見失う。

 もうひとつ付け加えておかなければならないのは、随所に見られる周到な比喩表現だ。これらは、作品の単なる彩りであるにとどまらない。むしろ、これらの表現があってこそ、男の切迫感が、まばゆい日光が、砂の熱気と喉の渇きが、水の潤いが、男と女の欲情が、私達の眼前で顕在化するのだ。

 
 あれほど必死に逃げようとしていた男はしかし、一度決定的なチャンスで失敗した後、季節の移ろいとともに次第に変貌をする。

 男は、自らも気づかぬうちに、萎えてしまったのだ!

 
 人は絶望の中で希望を枯渇する。しかし、いざ絶望を抜けだすと、虚脱する。

 なんと逆説的で、なんと皮肉で、なんと精確な人間診断であることか。

TIME誌 Jan. 20, 2014カバー ジャネット・イエレン 16兆ドルの女性

 今週のTIME誌のカバーストーリーは、第15代FRB議長になるジャネット・イエレンについての特集です。(以下リンク先)FRB創設101年目にして、初の女性議長です。

http://content.time.com/time/subscriber/article/0,33009,2162267,00.html

 現在、米国の失業率は下落傾向にあり、経済は回復傾向にあります。しかし、リーマン・ショックで危機に陥った米国経済を立て直すための量的緩和政策から、徐々に脱却する必要があり、イエレン氏には、量的緩和脱却に伴うであろうと予想される失業率の上昇と、量的緩和維持に伴うと予想されるインフレーションとの間で絶妙な舵取りが求められています。

 高校を主席で卒業し、ブラウン大学に進んだ彼女は経済学の面白さに目覚めます。大学院を過ごしたイェールでは、トービンスティグリッツなど錚々たる面々から薫陶を受けます。そして、彼女がFRBの研究職として働き出した時、「レモンの市場」の理論で知られる、夫のアカロフと出会います。

 彼女は、FRB議長としては初の、改革志向を公言するケインジアンです。それは、彼女が、金融政策はビジネスサイクルの波を和らげ、経済を強くすることができると信じているということです。小見出しに"Kitchen-table economics"(家計の経済)とあるように、彼女自身は抽象的な理論や統計を振りかざすだけでなく、また、ウォール・ストリートにおもねることなく、現場の、家計の、個々人の経済状況こそを改善することを目論んでいます。

 彼女とその夫アカロフの経済理論の功績も紹介されています。なぜ、低い賃金は必ずしも高い雇用率をもたらさないのか?賃金が下がれば、失業率は改善する、というのは、初等古典派経済学では「常識」なのですが。なぜ、失業があっても、賃金は下方硬直性を持つのか?彼女ら曰く、「良い仕事をしてもらうために、市場価値よりも高い賃金を設定する経営者がいる」。また、自身らがベビーシッターを雇った経験から、「労働市場においては人間の感情が物を言う」(「相手は、子供に遣う金を最小化することを望んでいる」と感じているベビー・シッターを誰が望むだろう?)と。イエレン氏は、比較的新しい分野である行動経済学(主体は自らの感情によって行動し、伝統的な経済学とはかなり異なる結論が得られる)の考え方もも進んで受け入れているそうです。

 1月10日には、記事でも紹介されているスタンレー・フィッシャー氏が、オバマ大統領によって、FRBの副議長に指名されました。(就任には議会上院の承認が必要。)イエレン氏のティームワークの力と、フィッシャー氏の、独創的で先見の明を持った深い経済学への造詣。もし、フィッシャー氏が就任すれば、「ドリーム・ティーム」の誕生です。

 言うまでもなく、米ドルは世界中に流通している基軸通貨です。イエレン氏が今後どのようなメッセージを発し、どのような金融政策を行っていくのか、私達は注視しています。

 英語表現

 nothing if not: =extremely
 evenhanded: 公明正大な

Yellen, who is nothing if not evenhanded, says that she is doing her very best to meet these weighty challenges--and that things are looking up for America.
(イエレンは非常に公明正大であり、自身がこれらの重い課題をこなすためにベストを尽くすと、そして、情勢はアメリカにとって好転していると述べている。)


 kitchen-table: 家庭の、家庭的な

 What comes through very clearly is Yellen's refreshing kitchen-table realism and her eagerness to question and seek the truth--wherever it might be found.
 (はっきりしたのは、イエレンの新風を吹き込むような家庭的リアリズムと、彼女の、真実を問いただし探求したいという熱意だ。真実が見つかるかどうかにかかわらず。)

 Beltway: =Washington

Through it all, Yellen--who loathes Beltway politics yet deftly allowed the drama to run its course--remained steadfast.
 (その全体を通して、イエレン―彼女はワシントンの政治を嫌悪しているが、それでも手際よく、そのドラマを滞りなく放映させておいた―は、断固としていた。)

 Sometimes nice guys do finish first: "Nice guys finish last."(正直者は馬鹿を見る)のもじり。

 the Dodd-Frank banking reforms: ドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法Wikipediaのリンク参照

 pick up the pieces: 困難な事態を収拾する

 "I felt that the Fed had always been the agency that picked up the pieces when there was a financial crisis, and it was invented to do exactly that," she says. "But we never had as active a program to attempt to assess threats to financial stability as was called for."
 (「連邦準備理事会は、金融危機があったときには事態を収拾する機関であると感じてきました。そして、それはまさにそうするために設立されたのです」と彼女は言う。「しかし、実際に求められているほどには、金融の健全性への脅威を査定しようとする積極的な計画はありませんでした。」)

 Main Street:(Wall Streetと対照して)実体経済

 After all, at the end of the day, Janet Yellen, the commander in chief of the everyday economy, will judge herself not by the views of Wall Street but by the health of Main Street.
 (結局のところ、毎日の経済の司令官であるジャネット・イエレンは、自分を、ウォール・ストリートの見方ではなく、実体経済の健全さによって判断するであろう。)

緩やかさ

[書評]

緩やかさ

緩やかさ

この小説が好きだ。

私は、思考が挑発されるのを感じるから。(つまりは、自らの信念だと思っていたものが、単なる抽象にすぎなかったのではないかとドキリとさせられるから)

私の、言葉にならなかった言葉が語られるのを聞くから。

ほとんどいつも、にやりとするほどに可笑しく、たまげるほどに下品で醜悪だから。

○○○○


クンデラが初めてフランス語で書いた記念碑的小説。自由奔放でチャーミングな物語だ。

何という狡猾なユーモア!意地悪な風刺!!

…「ご婦人がいらっしゃるまえで、わざとらしいほど華々しい考えにこだわる、そのこだわり方はきみのリビドーの憂慮すべき逆流を示しているんだよ」(pp.33-34)

声を上げて笑いそうになった。私もそんな諧謔を弄した軽口を言われそうだ、この小説が好きだとなんて言っていたら。

このディレンマのか細い溝の底の暗渠で、クンデラは哀しく笑っている。  

ジャック・ロンドン 『火を熾す』

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

 生涯を通して200本の短篇小説を残したジャック・ロンドンの、珠玉の9本の短篇集。訳者である柴田元幸は「ロンドンの文章は剛速球投手の投げる球のような勢いがあり、誠実で、率直で、ほかの作家ではなかなか得られないノー・ナンセンスな力強さに貫かれている」と評するが、さすが日本を代表する英文翻訳者、その勢いがそのまま伝わってくる訳文の短篇ばかりである。

 本書には『一枚のステーキ』という短篇が収められている。「ステーキを一枚食うことさえできたら…」と悔やむ、年配のボクサーの物語だ。ジャック・ロンドンの短篇は、豪快に焼かれ、シンプルに味付けされた良質なステーキの旨さを思い起こさせる。人間の生が、野生性が、ありありと描かれていて、とは言っても、決して大味ではなく、深い味わいと余韻を湛えている。

 そして、ロンドンの短篇は、私たちに、人生を生きることとは、戦うことであるということを教えてくれる。相手が、極寒の大自然であれ、意地悪なボクサーであれ、内なる他者であれ。勝つこともあるし、負けることもある。それでも、私たちは、戦いを通して、強くなれるのだ。これは素朴な人生観だが、幼い頃からのそんな希望を想って胸が温かくなった。